セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)


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   序章 セカイ系という亡霊

 世界っていう言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた

しんかい

新海 誠『ほしのこえ The voices of a distant star』

 2000年から2009年、ゼロ年代と呼ばれる時代を通じ、オタク文化(アニメやマンガ、ゲーム、それからライトノベル、あるいは秋葉原やインターネットなどに代表され

る、オタクと呼ばれる人々を中心として消費されるコンテンツを、本書ではこのように総称する)コンテンツをめぐる言説空間のなかで、一つの言葉が、まるで亡霊のように彷 徨っていた。  それを「セカイ系」という。 「Aという作品は、セカイ系だ」 「Bという作品は、アンチ・セカイ系である」 「Cという作品は、セカイ系の乗り越えである」 「セカイ系は終わった」

年にかけて放映されたメガヒット作『新世紀エヴァンゲリオン』、新海誠による個人制作の短編作品として2002年に公開され、石原慎太郎都

 もしも、あなたが、オタク文化に関するテキストに多少なりとも触れていれば、一度ぐらい、こんなフレーズに出合ったことがあるはずだ。  アニメでは、1995年から

 あるいは、ゼロ年代の論壇に親しんでいる読者であれば、



ろう

ゆう



年代にニューアカ・ムーブメントで一世を風靡した寵児・浅田彰の後継者として、思想書『存在論的、郵便的  や

ぶき かける

神科医にして、精力的に文芸批評を行う斎藤環 や、人気ミステリ「矢 吹 駆 」シリーズなどで知られる作家・笠井潔、音楽批評家として活動し、最近では新書『ニッポンの思想』

たまき

ジャック・デリダについて』で注目を浴び、その後、現代思想からオタク文化へと活動の射程を広げ、若いオタク世代の理論的指導者とさえ目される批評家・東浩紀をはじめ、精

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れ!」とのキャッチコピーがつけられていたし、iPhone用のアプリケーションとして話題を呼んだ「セカイカメラ」なども、その一つとして挙げられるかもしれない。

あるいは小説『ボクのセカイをまもるヒト』。オタク文化の文脈を離れても、2009年7月に公開された映画『蟹工船』には「立ち上がれ! そして、このセカイを突き破

 たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』のプレイステーション・ポータブル(PSP)用ゲームにつけられたサブタイトル「造られしセカイ」やマンガ『神のみぞ知るセカイ』、

 聞いたことがない、という人でも、一度ぐらいは「世界」をカタカナで「セカイ」と記す表記を目にしたことはないだろうか。これもまたセカイ系から派生した流行だろう。

 これらは、セカイ系と名指された作品のほんの一例である。

『なるたる』『ぼくらの』など。

  あるいはマンガでは、各巻累計2000万部を超え、実写映画化もされた大場つぐみ原作、小畑健の人気作『DEATH NOTE』をはじめ、高橋しんの『最終兵器彼女』、鬼頭莫宏

ゼロ年代の『新世紀エヴァンゲリオン』と呼ばれるほどのヒット作となった谷川流のライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズ。

ビューし、三島由紀夫賞を受賞、日本文芸の新たな旗手として注目を浴びる舞 城 王 太 郎 、佐藤友 哉 の諸作品。あるいは、シリーズ累計で500万部以上を売り上げ、アニメ版が

まいじょうおう

 あるいは小説。ゼロ年代を代表する大ヒット作家であり、200万部を売り上げたミステリ小説「戯言」シリーズの西尾維新や、彼と同じくミステリ誌『メフィスト』からデ

知事らの絶賛を受けた『ほしのこえ The voices of a distant star』。

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が好評を得た佐々木敦など、文芸批評家たちがしばしばこの単語に言及しているのを読んだことがあるはずだ。 つね ひろ

 とりわけ2007年以降、東浩紀を「セカイ系の擁護者」として痛烈に批判した評論『ゼロ年代の想像力』で評論家・宇野常 寛 が登場してからは、東と宇野の論争が、論壇など を賑わせることとなった。

 同じくゼロ年代後半になると、セカイ系という言葉は、社会評論にまで越境し、社会学者の宮台真司や鈴木謙介、評論家・浅羽通明などによっても用いられ「小泉改革」や「引 きこもり」「ニート」などの分析に援用されることとなった。

 あるいは宇野の『ゼロ年代の想像力』のカウンターとして、前述した笠井潔や若手評論家たちによる評論アンソロジー『社会は存在しない セカイ系文化論』が編まれるなど、

セカイ系という言葉は、ゼロ年代を通じて、オタク文化とその周辺の言説空間のなかで、きわめて重要なキータームとして機能してきた。

セカイ系とは何か? 曖昧なその定義  では、このセカイ系とは何か?  ところがこれがはっきりしない。







 セカイ系とは、一般的に次のような要素を持つ作品とされる。 き

・少女 と少年 の恋愛が世界の運命に直結する ・少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている ・社会の描写が排除されている

 そして、作品としては、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、新海誠のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』が、その代表と言われる。

 ところが、困ったことに、これらの代表作ですら、この定義には当てはまらないのである。『ほしのこえ』では、恋愛が世界の運命を決定することはないし、『最終兵器彼女』

では、主人公である少年も戦争に巻き込まれる。『イリヤ』では、少年と少女を取り巻く軍隊という社会的存在が厚く描写されている。  そもそも、3作はまったく異なる作品とさえ言える。

『最終兵器彼女』は、作中の道具立てこそ「終末戦争」や「最終兵器」と荒唐無稽だが、その主題は、現代の高校生ふたりのぎこちない恋愛模様を、写実的に描き出すことにあっ

たと思える。一方『イリヤ』の登場人物は、それとは正反対の類型的キャラクター(いわゆる「萌えキャラ」)であり、少年と少女の悲恋を描く、ウェルメイドな「泣ける話」で



日に、自

ある。また新海誠は、一貫して男女の遠距離恋愛というテーマを描き続けている映像作家だが、しばしばストーリー以上に、印象的な風景描写やフラッシュバックの多用が、その 特徴として挙げられている。  このように、多様な作品たちが、セカイ系という語で一緒くたに名指されてしまっている。

 実際、ある作品が、ある論者からセカイ系と呼ばれ、別の論者から反セカイ系と呼ばれる事態さえ、珍しいことではない。たとえば作家・西伸哉は、2004年 身のウェブサイトで自作の書評に触れ、次のように記している。

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の書評系サイトでは「セカイ系の典型」と言われたんですよね。こういうのを目の当たりにするとジャンル分けとかレッテル貼りというのは無意味だと実感します。

  で、拙作『セカシュー』(引用者注:『世界が終わる場所へ君をつれていく』)はSFだそうで。「SFマガジン」で取り上げられた時には「反セカイ系」と言われ、どこか

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  こうした対立はいくらでも見つけることはできる。『イリヤ』はセカイ系の典型とも、アンチ・セカイ系作品とも呼ばれている。『DEATH NOTE』も評論家によってはセカイ系 とも、その乗り越えとも評される──。 セカイ系は存在しない?

 こうした点から、しばしば「セカイ系なるものは単なるバズワード(明確な定義や含意がないまま、特定のグループ内で流通する言葉)であって、実体は存在しない」とも言わ れてきた。  そもそも、セカイ系という言葉のもとをたどると、それは「一人語りの激しい」作品を名指す言葉だったということがわかる。

 一人語りの激しい、とは、おそらく視点人物のモノローグが多用される、あるいは自意識が過剰な、といった意味だろう。しかし、そうした作品など古今東西、別に珍しくもな

い。それが定義となるなら、太宰治やサリンジャーだってセカイ系になってしまう。「自意識」は、近代文学においてもっともポピュラーな題材のひとつといって間違いないのだ から。

 セカイ系という言葉を生んだ書き手は、そう名付けた理由を「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる」からだと説明するが、しかしそれにして

も、ヘルマン・ヘッセが「さようなら世界婦人よ」と書き、寺山修司が「今日の世界は演劇によって再現できるか」と語ったのと、どう違うのか?

 あるいは、浅羽通明は『右翼と左翼』のなかで、日本の右翼、左翼思想をセカイ系だと形容している。しかし、だとすればそれは現代社会において普遍的な要素にすぎず、こと さらにセカイ系という言葉で名指す必要があるのか疑問である。  やはりセカイ系の実体は存在しないことになってしまう。

セカイ系をめぐる混乱  セカイ系をめぐる議論をややこしくしている原因はさらに2点ある。

 第一に、定義が曖昧にもかかわらず『涼宮ハルヒの憂鬱』の谷川流や直木賞受賞作家となった桜庭一樹など、少なからぬ作家たちが、セカイ系という言葉を意識したとおぼしき 創作を発表している点。セカイ系という言葉が生まれた結果、セカイ系作品が生まれるという逆説的な事態が起こっている。

 第二に、セカイ系という言葉は、本来、批判的、揶揄的な意味合いの強い単語として生まれた。この言葉によって名指された作品が、今日にいたるまで、賛否をめぐる激しい論 争にさらされてきたという点。

 たとえばマンガ『ぼくらの』のアニメ版の監督・森田宏幸は、自身のブログで原作をセカイ系であると断じ、そのアニメ化に際して、徹底的な改変を加えたことで話題を呼ん だ。しかし、一方でこのタームを、肯定的な意味合いで使用しセカイ系を評価した論者も少なくない。

 結果として、セカイ系の言説は、是か非かばかりが争われ、そもそもその議論の土台となる「それは何か?」という問いが、今日に至るまでおざなりにされてきてしまった感が ある。

 ある意味、肯定者も否定者も、自分の肯定したい作品、否定したい作品をセカイ系と名づけ、自分なりの定義で論じ、すれ違うという、残念ながら不毛な議論に終始してしまっ た面があるのだ。

セカイ系から見えてくるゼロ年代

 結局、「セカイ系は存在しない」という議論と「セカイ系は是か非か」という議論に挟まれ、「セカイ系とは何か?」はほとんど問われてこなかった。本書の目的は、そんなセ

カイ系という存在を、正しく捉えることにある。

年代からゼロ年代を通じ、オタク文化における、もっとも大きな変化は何かと言えば「萌え」だろう。それまではせいぜ

 筆者のこの問題意識は、非常に限られたものにしか見えず、読者の関心を早くも失いつつあるかもしれない。だが、ページを閉じるのは少しだけ待っていただきたい。  セカイ系という問題の射程は、確かに狭い。たとえば

いは擬似的な)問題にすぎないことも、残念ながら事実かもしれない。  しかし、本書の結論をやや先取りして述べるならば、セカイ系とは、 クたちの問いかけから生まれたものと言える。

 ご存じのように、『エヴァ』から

年代後半に大ヒットしたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と、その影響とは何だったのか、というオタ

余年の時を経て、同作は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』としてリメイクが始まっている。上映館の少なさなどの不利をものともせず、映画史

は、ライトノベルは、どこから来たのか? それを語ってみたいと思う。

時の流行として忘れ去られようとしている。けれども、やはり現在は歴史の積み重ねから生まれてくる。あなたたちが今、熱狂しているニコニコ動画は、あるいは『けいおん!』

 そして、何より、本書は、より若い世代に向けて書かれている。ありとあらゆるコンテンツが、一瞬で消費され、更新され、忘却されていく現在にあって、セカイ系もまた、一

か。それを今こそ、はっきりさせてみたい。

 あるいは、同年代の読者ならば、おそらく、オタク文化の至るところに出現し、結局話を混乱させる役にしか立たなかったセカイ系という言葉に苛立ちを覚えているのではない

は、そこから現在まで、一体何があったかを説明することができると思う。

 1982年生まれの筆者より年長の世代の読者のなかには、『エヴァ』以後、驚くべき変化を遂げたオタク文化に戸惑いを覚えている方もいるかもしれない。だとすれば本書

 セカイ系を問うことは、それらの疑問に答えることにもなる。地味かもしれないが、オタク文化をまるで地下水脈のように流れた重要なテーマがセカイ系なのである。

 このような変化は、いかにして起こったのか?

している。

て、大きく変わり続け、現在では、ポスト・セカイ系とも呼ばれる日常系や空気系と呼ばれる作品が大ヒットし、あるいはウェブサービス「ニコニコ動画」が、大きな存在感を示

『エヴァ』のあと、大きな盛り上がりを見せたのは、「萌え」であり、あるいは美少女ゲームやライトノベルというコンテンツだった。オタクを取り巻く環境は、ゼロ年代を通じ

 ゆえにセカイ系を問うことは、『エヴァ』とは何だったのかを問うことになる。『エヴァ』後のオタクの歴史を語ることにも繫がる。

に、決定的な変化をもたらした。セカイ系という名で呼ばれていたのは、実は、この変化そのものなのである、というのが筆者の考えだ。

 社会現象にまでなったこの大ヒット作は、オタク文化のビジネスモデルから、作品の内容、あるいはオタクたちの趣味嗜好、作品受容の態度にいたる、ほぼ、あらゆるすべて

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 その決定的な変化に比べれば、セカイ系というのは、オタクたちのなかでも極々少数派である理屈好きの連中が、コミュニケーションの種として遊んでいただけの小さな(ある

 オタクとしてもっとも年長世代にあたる評論家の岡田斗司夫は、そうした現状を見て「オタクは死んだ」とさえ述べている。

は、ゼロ年代に全面化し、オタクであることが美少女に萌えることと、ほぼ等価で結ばれるような事態を生んだ。

い、メカであったり、膨大な設定であったり、あるいはアニメであれば緻密な作画であったり、とオタクたちの好む要素の、あくまで一部であったはずの「美少女」、「萌え」

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のか。その完結が待たれる現在、『エヴァ』と『新劇場版』の間の時代とは何だったのかを、どうか、筆者とともに振り返っていただきたい。

 何より、同作に感じられるのは、前作を乗り越えよう、前作を繰り返すまいとする強い意志だ。では、『新劇場版』が乗り越えようとする、『新劇場版』前の時代とは何だった

に残る、大ヒット作になろうとしている。

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本書の構成  本章に入る前に、本書の議論の見取り図を示しておきたい。

 本書の議論は、セカイ系と呼ばれた作品、たとえば『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』などの内容を分析し、そこからセカイ系のコアを取り出す、というような道は辿らない。





ほう へん

 前述したように、それらの作品の持つ要素は、実は、きわめて普遍的なものだからである。にもかかわらず、それは実作者たちをも巻き込み、結果的に「文学運動」とさえ呼べ るものとなってしまった。

 だから本書は、なぜそのような普遍的要素がセカイ系と名指され、オタクたちの間で特筆されるべき奇異なものとして流通し、どうして、これほどまでに激しい毀 誉 褒 貶 を呼

んだのか、と問うところから始める。そして、その原因を1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』がオタクたちにもたらした、作品受容態度の変化に求める。

 ある作品がセカイ系と呼ばれて賛否を呼び、そのなかから新たなセカイ系作品が生まれてくる。そのような書き手と受け手が一体となった、「セカイ系言説空間」とでも呼ぶべ きものが、セカイ系とは何かを問う上で重要だと考えるからである。  その目的を達成するため、本書は4章からなるプロセスを踏む。

 まず1章では、セカイ系を生んだ『新世紀エヴァンゲリオン』という存在が何だったのか? それがオタクたちに与えた影響、とりわけ、作品を受容する態度に与えた変化とは 何だったのかを探る。(1995年 ─99年)

 続く第2章では、のちにセカイ系と名指されることになるゼロ年代初頭の作品、『最終兵器彼女』、『イリヤの空、UFOの夏』、『ほしのこえ』、『AIR』、『クビキリサ

イクル』などを取り上げる。そしてこれらの作品が、なぜセカイ系と名指されることになったか、という視点から『新世紀エヴァンゲリオン』後のオタク文化を概観する。(20 00─03年)

 続いて第3章では、セカイ系という単語が、ネット上で発生、増殖し、笠井潔や東浩紀といった評論家たちに取り上げられることで、その定義が抽象化し、変質していく過程を 記述し、またそこで生まれた定義それ自体が、作品を生み出していく流れを述べる。(2004─06年)

 そして第4章では、前述の過程を経て、いったん、ブームが去ったように思えたセカイ系をめぐる議論が、『ゼロ年代の想像力』という批判を得たことで、再度、息を吹き返

し、オタク文化の内部を越えて広がっていく現在までの流れを整理する。そしてまた、オタク文化におけるセカイ系後の新たな作品受容の潮流、物語からコミュニケーションへ、 という流れを述べる。(2007─09年)  このような筋道を辿ることで、セカイ系という言葉のおおまかな概要を読者に示すことができると考えている。

 なお議論の都合上、いくつかの作品の謎や結末に触れざるをえず、「ネタバレ」を行っている部分がある。その点は、ご了承いただきたたい。

筆者について  最後に筆者自身の素性についても、簡単ではあるが述べさせていただきたい。

とう

かい

歳で体験、その後、『ブギーポップは笑わない』をはじめと

 筆者は、1982年生まれのライターで、現在は、ライトノベル、およびSFなどの分野を中心に書評などを執筆している。 しずく

『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編となる劇場版『THE END OF EVANGELION』を、主人公・碇シンジと同い年の

 もう少し、詳細に経歴を語れば、筆者は学生時代、前述した批評家の東浩紀が2004年から

年にかけて編集、発行していた有料メールマガジン『波状言論』の編集スタッフ

固有の)インターネット文化の洗礼を受けて育つ──という典型的なオタク第三世代であり、典型的なセカイ系作品の受容者である。

するライトノベルや『雫 』、『ToHeart』、『Kanon』、『AIR』などの美少女ゲーム、またセカイ系という言葉を生んだ(日記とジャーゴンと韜 晦 に満ちたいささか日本

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を経てライターとしてデビューした。現在、Wikipediaなどにあるセカイ系をめぐる記述は、自分が編集に携わっていた媒体から引用されたものが少なくない。また、ライター活動

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の初期、意図的に書評の中でセカイ系という言葉を用いたことも多かった。  その意味で、筆者もまた、セカイ系をめぐる運動の当事者(あるいは混乱の元凶)のひとりでもあったと自負している。

 本書は、そんな経歴の持ち主が語るポスト・エヴァのオタク史である。できるだけ客観的な記述を心がけるつもりだが、しかし、当然、個人の視点には限界がある。議論を明確

にするべく、あえて強引な見取り図を描いてしまったり、切り捨ててしまった要素は多いし、見落としてしまった点も少なくないはずである。とりわけ、セカイ系と名指された作 き

たん

品は、オタク文化のなかでも、男性をメインターゲットにしたものが多く、本書の議論もまた、男性オタクを中心としたものにとどまっている点は、ご留意いただきたい。

 忌 憚 なき意見や批判を本書に寄せていただき、「正史」を紡ぐための土台、叩き台としていただければ、筆者にとってこれ以上の喜びはない。

目次

 序章 セカイ系という亡霊

年代の象徴─震災、オウム、エヴァ /究極のオタク向けアニメとしての『エヴァ』 /オタク公民権運動と岡田斗

      セカイ系とは何か? 曖昧なその定義 /セカイ系は存在しない? /セカイ系をめぐる混乱 /セカイ系から見えてくるゼロ年代 /本書の構成 /筆者について

第1章 セカイの中心でアイを叫んだけもの 1995年─99年       セカイ系=エヴァっぽい作品? /メガヒットアニメとしての『新世紀エヴァンゲリオン』 /

劇場版』 /ポスト・セカイ系のオタク文化 /対テロ戦争文学としての「現代学園異能」 /テロリストとしてのガンダム、カウンター・テロの少年少女たち /群像劇──アーバンファンタジーへの回帰 /萌

系の拡散 /セカイ系はなぜ終わったか? /セカイ系とメディアミックスの相性の悪さ /セカイ系のサブジャンル化──自意識なきセカイ系『スマガ』 /セカイ系からの脱却を目指す『ヱヴァンゲリヲン新

判の困難さ /自己反省への批判──レイプ・ファンタジー /終わらない自己反省批判 /後ろめたさの原因としての『エヴァ』 /『エヴァ』と『ナデシコ』──外に出ること、内に止まり続けること /セカイ

      セカイ系の終わりと再興 /宇野常寛の登場──『ゼロ年代の想像力』によるセカイ系の復活 /セカイ系=引きこもり? /東浩紀はセカイ系の擁護者か? /ゲーム的リアリズムとセカイ系の合流 /セカイ系批

第4章 セカイが終わり、物語の終わりが始まった? 2007─09年

る /二度目の、アトムの命題 /セカイ系の終わり──物語からコミュニケーションへ /物語消費への回帰──『月姫』、『Fate/stay night』 /新たな時代の幕開けとしての『ハルヒ』ムーブメント

リズム /セカイ系への反応 /セカイ系への応答作、風見周『殺×愛』 /文芸運動としてのセカイ系 /セカイ系──自己言及性の文学 /半透明な文体とセカイ系 /自己言及の運動こそがセカイ系を成立させ

      セカイ系の定義の変化 /ライトノベル・ブームとセカイ系 /セカイ系の活字への越境 /セカイ系定義の確立 /セカイ系の抽象化、非歴史化の理由 /セカイ系に対する当惑 /ループものの伝統とゲーム的リア

第3章 セカイはガラクタのなかに横たわる 2004─06年

/セカイ系という言葉の的確さ /ポスト・エヴァのオタク文化を象徴する『涼宮ハルヒの憂鬱』

とセカイ系──データベース消費の表裏 /『ファウスト』──新本格のなかのポスト・エヴァ /セカイ系としての西尾維新 /『ファウスト』における虚数の青春 /セカイ系の誕生──ぷるにえブックマーク

ヤ』が排除したもの /物語消費とは何か? /『エヴァ』の物語消費からの決別 /なぜ自意識はセカイ系として名指されたのか? /物語消費からデータベース消費への移行により、物語は復活する /萌え

をねらえ!』の先行作参照 /『ほしのこえ』の先行作参照 /『イリヤの空、UFOの夏』──ウェルメイドなポスト・エヴァ作品 /『イリヤ』のメタ構造 /『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』、『イリ

争──ホワイトベースの不在 /使徒とは何か?──敵の不在 /『無限のリヴァイアス』の健全さの根源 /使徒としての戦争──『最終兵器彼女』 /『ほしのこえ』と『トップをねらえ!』の差異 /『トップ

      オタク文化の自問自答の軌跡 /萌えと美少女ゲームのゼロ年代─『ToHeart』 /『ToHeart』から『ONE』へ /奇妙な恋愛マンガ──そのタイトルは── /『最終兵器彼女』の描く戦争 /『エヴァ』が変えた戦

第2章 セカイっていう言葉がある 2000─03年

文化の大変動

論─オタク第三世代の登場 /セカイ系が名指そうとしたもの /第三次アニメブーム /ファンタジーから現代へ─『ブギーポップは笑わない』 /「ゲーム」から「小説」へ─『雫』 /映像から活字へ─オタク

司夫 /『エヴァ』を見るのに必要なもの /内向きな作品としての『エヴァ』 /オタク向けアニメからオタクの文学へ /『エヴァ』評価をめぐる激しい対立 /『エヴァ』をめぐる対立の焦点 /オタク世代

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え4コマと空気系 /自己言及性の自己肯定化 /物語からコミュニケーションへ? /『ひぐらし』、『東方Project』──コミュニケーションから物語消費への回帰? /ニコニコ動画─コミュニケーションとし ての創作 /オタク文化の思春期としてのセカイ系──新たなるセカイ系の誕生に向けて

      あとがき

      主要参考文献

      主要参考作品

第1章 セカイの中心でアイを叫んだけもの 1995年─99年

セカイ系=エヴァっぽい作品?

 数多くの作品が、セカイ系と呼ばれて批判され、擁護され、あるいは反セカイ系、アンチ・セカイ系、セカイ系の乗り越えなどと呼ばれた。そして、そんな言説のなかで、新た なセカイ系作品が生まれた。そんなふうにゼロ年代のオタク文化を漂った「セカイ系」なる言葉とは何だったのか。  現在に至るも、その定義は曖昧だが、一応、次のようなものが一般には流通している。

  主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象 的な大問題に直結する作品群のこと(『美少女ゲームの臨界点』)

  ライトノベルやアニメ、コミックなどでよく扱われる、舞台設定の一つ。主人公とセカイ(世界)とが直接結びついていて、その間における社会の存在が無視されてしまって いるもの(「Yahoo!辞書(提供:Japan Knowledge)」)



日のことで、自身

  物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、『世界の危機』『この世の終わり』といった抽

象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群(『社会は存在しない』)

 しかし、この定義が必ずしもセカイ系と呼ばれる作品の内実を正しく捉えていないことも、序章で、すでに確認したばかりである。  そこで、議論を始めるにあたり、この語の起源に戻ることにしよう。

 この言葉を提唱したのは、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人である、ぷるにえ。彼が、この言葉を初めて公の場で使ったのは2002年 のサイトの掲示板に「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドを投稿している。

 そこから、彼が何を名指そうとしていたのか? あるいは、セカイ系という言葉に反応した人々は、何が名指されたと感じたのかを問い直してみよう。  彼はセカイ系をこう定義していた。  ●「セカイ系」のまとめ  ・ぷるにえが一人で勝手に使ってる言葉で、大した意味はない  ・エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる

31

  例えば「ほしのこえ」例えば「最終兵器彼女」。

  「社会」や「国家」をすっとばして「自分のキモチ」なり「自意識」なりが及ぶ範囲を「=世界」と捉えるような世界観を持つ一連のオタク系作品がこう呼ばれているらしい。

  又の名を「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」。

「善良な市民」という名義で、運営していたウェブサイト「惑星開発委員会」でも、

 このようにセカイ系という語は、作品の構造ではなく、「エヴァっぽい」作品を指す言葉だったようだ。後に『ゼロ年代の想像力』でセカイ系批判を行う宇野常寛が、かつて

 ・これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった

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 と定義されている。さらに補足すると、ポスト・エヴァンゲリオン症候群という語は、NHKのトーク番組『BSマンガ夜話』においてマンガ『最終兵器彼女』が取り上げられ 月

日に放送された同番組のなかで、岡田は「自分の内面的な問題と地球規模のカタストロフ、戦争とかそういうものが同じラインで描かれてしまう」と、おおむ

た際、評論家・岡田斗司夫が同作を、ポスト「エヴァンゲリオン」症候群作品、と形容したことに、おそらく由来する。  2002年

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メガヒットアニメとしての『新世紀エヴァンゲリオン』 『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、『エヴァ』)は1995年 月から全

年後の西暦2015年を舞台にしたロボットアニメである。中学2年生の

話がテレビ東京系で放送されたテレビアニメである。後に完結編となる劇場版が、1997年の春と

夏に公開された。原作はガイナックス、総監督は庵野秀明。セカンドインパクトと呼ばれる大災害から

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年代の象徴──震災、オウム、エヴァ

上げそのものでまかなうビジネスモデルの確立など、オタク産業のあり方そのものまで変えてしまった。その影響をつぶさに記していけば、それだけで一冊の本となってしまう。

くLDやVHSなどの映像ソフトが好調な売り上げを記録したことにより、スポンサーが制作費を、プラモデルなどのキャラクター関連商品の売り上げではなく映像ソフトの売り

 このメガヒット作がオタク文化に与えた影響はあまりに大きい。たとえば深夜の再放送が高視聴率を記録したことによる深夜アニメの普及とそれに伴う制作本数の増加。おなじ

員数を記録するなど、現在でも、まったく衰えない人気を示している。

07年からは本作のリメイク版の映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が公開され、全4部作予定のうち第2作目となる『破』は、上映館の少なさをものともせずに200万人の動

『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』に次ぐ大ヒットアニメとなった本作は、ブーム当時、経済効果は400億円とうたわれた。その後も、関連商品は作られつづけ、20

物語だ。

少年・碇シンジが、長年別居していた父から、秘密組織NERVに呼び出され、巨大ロボット・エヴァンゲリオンのパイロットとして、「使徒」と呼ばれる謎の怪物と戦っていく

15

10

 それを考えるため、本書はまず、『新世紀エヴァンゲリオン』とは何だったのか? を問うことを議論の始めとしたい。

すのだろうか?

 では、ひとまずセカイ系の定義を、「エヴァっぽい作品」とするとして、では「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」、「ポスト・エヴァンゲリオン」とはどういう作品を指

ていたように思える。

ね現在のセカイ系の定義にも符合する説明を行っているが、いずれにせよ、初期の段階では、セカイ系作品は、その物語構造以上に、ポスト・エヴァという文脈のなかで名指され

10

姫』である。  だが、本作はしばしば『もののけ姫』をおいて、

年代を代表するアニメ作品として語られる。それは同作が、日本の

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『エヴァ』は、そんな時代を鏡のように写し取った作品とされる。

ていた。

年代を象徴するアニメだとされるからである。

な不安な時代のなかで、トラウマ、アダルトチルドレンなどの言葉が流行する俗流心理学ブームも起こり、人々の関心も「内面」「本当の自分」といった内省的なテーマに向かっ

めた時代だ。そんな最中、1月に阪神・淡路大震災、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件というふたつの衝撃的な事件が発生し、時代の閉塞感を決定的にする。そのよう

『エヴァ』のテレビ放映が開始された1995年は、バブルの崩壊から始まった経済不況(「平成不況」)の長期化が人々に実感され、経済大国・日本という神話に陰りが見え始

 本書は、社会評論の書ではないから、ごく一般的な理解を追う。

90

画動員数のトップは、同作完結編となる劇場版『THE END OF EVANGELION』(以下、『EOE』)ではなく、当時の歴代興行収入第1位となった宮崎駿監督のアニメ『もののけ

 しかし『エヴァ』がオタク文化史のなかで、あるいは日本の文化史のなかで特筆すべき作品として論じられるのは、必ずしも商業的成功からではない。たとえば1997年の邦

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 心に傷を抱え人との距離感がわからない少年少女たちの心理面に重点を置いたストーリー、ロボットアニメでありながら、自閉的な主人公がロボットに乗って戦い成長する、と

いうドラマツルギーを拒否する展開。そしてまた、聖書をはじめ様々な宗教、神話の引用からなるカルト的とも呼ばれる世界観(一方、オウム真理教というカルト教団は、空気清

年代の空気を見事に捉えた同時代性により、『エヴァ』は、アニメでありながら、いわゆるオタク層以外からも大きな支持を受け

浄機にアニメ『宇宙戦艦ヤマト』に登場する装置の名を引用するなど、オタク文化からの影響も指摘されていた)。  そのような自閉的で、終末的で、カルト的な

 かくして、『エヴァ』は、社会現象とまで見なされるヒット作となり、現在でも、失われた

究極のオタク向けアニメとしての『エヴァ』

年、

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りする奴らが。モロあれなんだよね。

 という中森の語り口から明らかなように、本来、蔑称であった。それ以後、1988年から

 世の中が『エヴァ』ブームに沸く

年代という時代を代表する作品として認知されている。

年にかけて発生した連続幼女誘拐殺人事件の犯人・宮勤が「おたく」として報道さ

年代後半、そんな蔑称、差別語としての「おたく」をポジティヴな意味合いで捉え直そうと、みずからおたくの王様=オタキングを名乗り、

れたこともあり、大人になってもアニメやゲームに熱中する社会不適合者、ロリコンの犯罪者予備軍といった意味合いで使われていくことになる。

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  なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてた

83年6月号に掲載された、編集者、コラムニストの中森明夫による記事「『おたく』の研究」に由来する。

 さらに話が遡って恐縮だが、もともと「オタク」という語は、後に評論家、マンガ原作者として活躍する大塚英志が編集長を務めていたロリコンマンガ誌『漫画ブリッコ』19

オタク公民権運動と岡田斗司夫

義をそのように変えてしまったとさえ言える。では、『エヴァ』以前のオタク、『エヴァ』が狙ったオタクとはどのような視聴者だったのだろうか?

「美少女に萌えること」となってしまった感がある。だが、そうした萌えの流行は、『エヴァ』以後に進行した事態であり、あえて極論を述べれば『エヴァ』こそが、オタクの定

 しかし、今、多くの人々がオタク向けと聞いて連想するのは、綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーという美少女キャラクターだろう。実際、ゼロ年代では、オタクの定義自体

は、大分、ポジティヴな意味合いを持ってきている。

 日本発のマンガ、アニメなどが海外で高く評価されていると報道され、コンテンツ立国、クールジャパンなどという言葉が喧伝される中、オタクという語のイメージも、現在で

ば、究極のオタク向けアニメとして作られていたように思える。そして、その試みの失敗により、かえって普遍性を獲得した=大ヒット作となった逆説的な作品だと言える。

 しかし、『エヴァ』の同時代性、普遍性は、必ずしも意図的なものではなかった。少なくとも放送開始時は、むしろ、正反対のきわめて狭い客層に照準した──もっと率直に言え

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論の文脈に近づけるなら、浅田彰の後継者としてデビューした現代思想界の俊英・東浩紀が、文芸誌などで積極的にこの作品を論じ、評価したことも、大きな話題となった。

る。オタクという語がまだまだ差別的な意味を強く持っていた時代にもかかわらず、アニメ誌以外でも『QuickJapan』『STUDIO VOICE』といった雑誌で巻頭特集を飾る。本書の議

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いはずだ。しかし岡田が

年代に擁護しようとした「オタク」は、現在のような「美少女に萌える人間」「オタク文化に親しんでいる人間」という広く、曖昧な定義ではなく、共

 現在、おたくが、オタクとカタカナで表記され、宮勤事件の記憶も脱色され、ごく自然に用いられているのは、岡田の(言うなれば)「オタク公民権運動」に拠るところも大き

単行本『オタク学入門』を1996年に上梓するなど、さかんに言論活動を繰り広げたのが岡田斗司夫である。

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 では、岡田が擁護し、『エヴァ』がターゲットとして狙ったオタクとはどのような集団だったか? 『オタク学入門』のなかで、岡田はオタクを、

通した素養、前提を持つ特定の文化集団を指していた。そして、『エヴァ』もまた、本来はそうした集団に向けられた作品だった。

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  映像の時代に過剰適応した視力と、ジャンルをクロスする高性能なレファレンス能力で、作り手の暗号を一つ残らず読み取ろうとする、貪欲な鑑賞者なのだ。

 と定義している。

 オタクとは、ある共通する能力と教養をもとに作品を鑑賞する、という作品受容の態度によって定義されるというのが、岡田の論のキモである。

『エヴァ』を見るのに必要なもの

 具体的に、岡田斗司夫のオタク論を、究極のオタク向けアニメである『エヴァ』を例に解説してみよう。岡田自身もまた、同作を世に送り出したガイナックスの創立に携わって いる。  たとえば、岡田はオタクの特徴として、動体視力を挙げる。

『エヴァ』のオープニングアニメは、カット割りがとにかく早い。わずか数コマしか登場せず、録画した映像をスローモーションで見なければとても判別できないような絵が混

ざっている。そのため、テレビアニメとして放映された『エヴァ』のオープニングを十全に鑑賞するためには、そのようなカットが挿入されていることに気づく動体視力が必要だ し、後ほど、コマ送りで鑑賞するためにはもちろん、事前に録画しておかなければならない。

人の家来が敵の家に乗り込む、というストーリーや、

それぞれのキャラクター(中略)が「世

 あるいは、岡田は、オタクたちが、毎回決まったパターンを繰り返すロボットアニメや特撮ものを飽きもせずに見返すのを「世界と趣向」という歌舞伎用語を用いて説明する。

  たとえば忠臣蔵というお話がある。切腹を命じられた主君の仇を討つために

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え!』を参照したい(岡田は同作に原作としてクレジットされている)。

 このような引用の群は、しばしばオタクたちに作品視聴態度の分裂を要求する。象徴的なシーンとして『エヴァ』と同じガイナックス作品である1988年の『トップをねら

のSF小説からとられている。

いは作中の重要タームである「人類補完計画」やテレビ版の最終話のタイトル「世界の中心でアイを叫んだけもの」は、それぞれコードウェイナー・スミスとハーラン・エリスン

 実際、『エヴァ』は先行作品からの膨大な引用や参照で成り立っている。たとえば特徴的な、黒地に白抜きの極太明朝によるタイポグラフィは市川崑の映画が元ネタだし、ある

 あるいは岡田は、映像作品のなかから、引用や「パクリ」を発見できる能力も、オタクの条件だと述べる。

品と論ずることもできるだろう。

は動力がケーブルを通じて供給され、これが切断されると数分間しか動けなくなってしまうという設定は、『ウルトラマン』の「世界」をロボットアニメの「趣向」で展開した作

ではなく、零号機、初号機、弐号機。操縦席はおきまりの頭や胸ではなく脊髄に作られ、また振動や衝撃から搭乗者を守るためL.C.L.という液体で満たされている。あるい

 しかし「趣向」においては、様々な工夫が凝らされている。主役メカのエヴァンゲリオンは、金属で作られたロボットではなく有機質の「人造人間」。0号機、1号機、2号機

ジンガーZ』や『機動戦士ガンダム』といった以前の作品と何一つ、変わっていない。

 たとえばロボットアニメにおける「世界」とは、少年の主人公が肉親(たいてい父親)の開発したロボットに乗って戦っていく、というものだ。この点では『エヴァ』は、『マ

 そして、オタクたちは、世界ではなく趣向にこそ注目しているから、同じような特撮ものやロボットアニメを何本でも見ていられるのである、と論じる。

る。「趣向」とは今の流行や意外な視点、新キャラなんかのことだ。

界」である。(中略)が、これだけでは毎年同じものをすることになるし、どこの劇団の出し物も同じになってしまう。(中略)そこで、それぞれ独自の「趣向」を取り入れ

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 人類の天敵・宇宙怪獣と巨大ロボット・ガンバスターの戦いを描くロボットアニメである同作は、『エヴァ』以上にパロディ的色彩が強い。その第4話には、壊滅寸前の艦隊を

救うべく秘密兵器ガンバスターが出撃するという感動的なシーンがあるが、そのバーニアノズルから吹き出る炎は、まるでガスバーナーの火のように表現されている。同シーン は、特撮映画『ガメラ』シリーズのパロディであり、それゆえ同作のガスバーナーによる安っぽい火炎表現を再現しているのだ。

 しかし、ごく普通に鑑賞する限り、同シーンは、作中屈指の名場面であり、勇壮な音楽なども相まって、視聴者は感動に胸を打たれこそすれ、笑うことはない。にもかかわら ず、ある一定の教養を持った視聴者=オタクにとっては、笑うべきシーンとなるのである。  岡田の言うオタクには、このような、作品から一歩引いた、シニカルでスノッブとも言えるような視聴態度も求められる。

内向きな作品としての『エヴァ』

あい かわしょう

 そのような究極のオタク向けアニメとしての『エヴァ』は、テレビ放送開始時から、事実、ターゲットたるオタクたちから歓迎され、好評を博した。その出発点は、当時のオタ

クたちの快楽原則に最大限こたえようとする保守的な作品だったとさえ言える。実際、同作の監督・庵野秀明とほぼ同世代である脚本家の會 川 昇 は、筆者がかつて発行した同人誌 『Natural Color Majestic-12』のインタビューのなかで、この作品に対して次のように述べる。

  実は、『エヴァ』のやったこと自体は、それほど新しいことではない。それまでOVAがずっとやっていた「僕たちの世代が好きだった、昔のアニメや特撮を今風にリファイ

ンする」という方法の延長線でしかないわけです。たとえば「第三新東京市」とか「使徒」といった設定も、光子力研究所や怪獣をどうしたらリアルに描けるかというところか ら生まれたものにすぎない。

 そもそも、『エヴァ』を制作したガイナックスは、ダイコンフィルム、ゼネラルプロダクツというアマチュアとしての、一オタクとしてのファン活動が高じて、1987年『王

立宇宙軍 オネアミスの翼』というアニメ映画でプロとなった映像集団である。彼らの作風について、マンガ編集者、評論家のササキバラ・ゴウは『教養としての〈まんが・アニ メ〉』のなかで、

  ガイナックスは、マニアックな会社として知られる。そのマニアックさは、単に作ったものが凝っているということだけではなく、おたくと呼ばれる層に「同類意識」を持た せる種類のものだという点で、他のアニメ制作会社と大きく違っている。 (中略)

  ここにあるのは、子供に見せるという意識ではなく、自分たちの仲間の目を意識して、彼らに「すごい」と言わせたいという感覚だ。   おたくによる、おたくのためのアニメ。それがガイナックスのスタートラインであり、この会社の本来の力なのだ。

)話あたりをピークに映像の質はどんどん下がる。オープニングや前半で見られた

 と評している。だから、もし当初の路線通り『エヴァ』が完結したとしたら、後に「エヴァっぽい」作品を意味するセカイ系という言葉が誕生することもなかったし、そしてお そらくセカイ系と名指された作品のいくつかも生まれなかったはずである。 オタク向けアニメからオタクの文学へ  ところが『エヴァ』はそのような作品として完結することができなかった。  制作体制上の問題からスケジュールが破綻したため、と一般に言われているが、第拾九(

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 制作体制上の問題からスケジュールが破綻したため、と一般に言われているが、第拾九(

)話あたりをピークに映像の質はどんどん下がる。オープニングや前半で見られた

 ところが、私たちはすでに知るように、こうした終盤における失敗、破綻にもかかわらず、『エヴァ』の人気は衰えることはなかった。というよりむしろ、この失敗、破綻によ

で、オタク批判を行っていた)、膨大な伏線の数々も一切、回収されないまま『エヴァ』は完結してしまう。

批判し、まるで「アニメを観るのをやめて現実に戻れ!」とでも言うかのようなラストを突きつけて(また監督の庵野秀明自身が、テレビ放送終了後、ラジオなどのマスコミ媒体

 テレビ版前半で見られた、オタク向けの数々のフックや過剰なまでのエンターテインメント精神はどこにもない。それどころか、当初のターゲットであったはずのオタクたちを

違いはあれど、自意識に焦点を合わせたという点に変わりはない。

 他者と共に生きていくことを選択したシンジがTV版最終回では「おめでとう」と祝福されて終わったのに対し、劇場版ではヒロイン・アスカに「キモチワルイ」と拒絶される

はなく、テレビ版最終話同様、他者への恐怖を語り続ける。

どころか、さらに徹底されていた。碇シンジは、作中、ヒロインの裸を「オカズ」に自慰にふけり、ロボットアニメの主人公でありながら、一度としてロボットに乗って戦うこと

「あまりにも時間が足りな」かった最終2話のリメイクとして作られた、完結編たる劇場版『EOE』もまた驚くべきことに、描かれるテーマはまったく同一のものだった。それ

と厳しく批判している。

セミナーのカリキュラムの最後と見事に同じなのだ。

  全登場人物に囲まれて、自分を発見した主人公シンジが拍手され、人々は口々に彼に「おめでとう……」と言う。このラストシーン、思い当たる人もいるだろうが、自己啓発

 (中略)

  小出しにされた謎や設定の大半が解明されなかったことは百歩譲って仕方ないとしよう。

売新聞』紙上で、

 謎解きを放棄し、物語を完結させるのを投げ出したとさえ見えるこの結末は騒然たる非難を呼んだ。たとえば評論家の大塚英志は、最終話放送直後の1996年4月1日に『読

いたい」、「僕はここにいてもいいんだ」という結論に達し、青空のもと、他のキャラクターに「おめでとう」と祝福されて幕を閉じることになる。

だ」と、延々、自意識の悩みを吐露し、あるいは「人から嫌われるのが怖いんでしょ。弱い自分を見るのが怖いんでしょ」と他のキャラクターから責められるなかで「僕はここに

 というテロップとともに始まり、主人公の少年・碇シンジが、体育館とおぼしき場所でパイプ椅子に座って「やっぱり僕はいらない子供なんだ。僕のことなんかどうでもいいん

 彼の心の補完について語ることにする

 よって今は、碇シンジという名の少年

 だが、その全てを記すには、あまりにも時間が足りない

 すなわち、心の補完は続いていた

 人々の失われたモノ

される。そして、最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」は、

 物語の視点は、どんどん登場人物の内面へと移り、「アダム」、「リリス」、「人類補完計画」など、それまで視聴者の興味を引く原動力となってきた謎への解答は、一切放棄

ンがたった1枚の絵で表現され、それが1分ほど続く、という放送事故まがいの映像も流された。

「映像の時代に過剰適応した視力」を楽しませるためのハイクオリティな映像は見る影もなくなる。ふたりのヒロインがエレベータのなかで気まずい沈黙をし続ける、というシー

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 ところが、私たちはすでに知るように、こうした終盤における失敗、破綻にもかかわらず、『エヴァ』の人気は衰えることはなかった。というよりむしろ、この失敗、破綻によ り、かえって『エヴァ』は単なるオタク向けアニメを超えた社会的大ヒット作になってしまうのである。

『エヴァ』終盤で描かれたのは、監督・庵野秀明の内面、自意識の悩みそのものだったように見える。言ってみれば『エヴァ』は、終盤及び劇場版で、唐突に「究極のオタク向け

アニメ」から「オタクの文学」へと変化したのである。そこで展開されたのは、少年がロボットに乗って戦い成長するというオタクが見たかった物語ではなく、美少女でオナニー

するオタク自身の姿であった。しかし、そのことで、『エヴァ』はオタクたちのアニメを超えて、社会現象とまで呼ばれるヒットを記録する。

 観客へのサービス精神を放棄し、自分の内面に目を向けたことで、かえって幅広い共感を呼び、外に開かれてしまうという皮肉な事態は、内省の時代、自分探しの時代だった 年代を象徴する出来事と言えるだろう。

とは言える。しかし、その破綻によってこそ『エヴァ』が、

オタクのまま)の少女を描いた。その意味では、ガイナックス作品は当初からオタクの文学という側

年代を代表する作品としての内実を得ることができたのもまた事実だろう。

「究極のオタク向けアニメ」を期待した層は失望し、作品は大きな批判を受けた。エンターテインメントを期待していたのに、監督の文学ごっこに付き合わされたのだから、当然

 終盤から劇場版に至る路線変更によって、結果的に大ヒットを超えたメガヒットとなったとはいえ、やはり『エヴァ』という作品が明確に破綻していたことは事実だ。同作に

『エヴァ』評価をめぐる激しい対立

面を有していた。しかし、それはハイクオリティな映像や、数々のパロディといった要素の裏に隠れて、『エヴァ』において剝き出しの形で提示されるまで、注目を浴びることは少なかった、と言える。

る時間の遅れ=ウラシマ効果を用い、周りの人間が大人になっていくのにいつまでも子供のまま(

ち上げる」というテーマは、アマチュア集団からスタートしたガイナックスが、企業から多額の出資を得て劇場映画を作るという、彼らの立場を綺麗に反映したものだし、『トップをねらえ!』も、超高速移動によ

「1、2話は最近の自分の〝気分〟が忠実に反映されたフィルムになりそうなんですよ。それに気がついたときに『ああ、よかったな』と思いました」と発言している。また『王立宇宙軍』の「若者がロケットを打

  注:ただし、こうしたテーマは必ずしも『エヴァ』後半に唐突に現れたものではない。たとえば放送開始に先立ち、庵野秀明は、アニメ誌『ニュータイプ』1995年4月号のインタビュー「幸福を求めて」のなかで

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 この記事については、同サイトに竹熊の反論「岡田斗司夫氏の『情報操作』に抗議する(暫定版)」が寄せられた。

  有名人がエヴァについて言及したと知ると、嬉しそうにぼくに電話してきた竹熊氏。たしかにあの時期の竹熊氏は熱狂していた。

  「○○さんもエヴァを『わかっている』に違いない」

す。エヴァの全巻ビデオを揃えて、知り合いの編集者や作家に布教し、一人でも多くの理解者・賛同者を得ようと努力した。

  現実から拒否された竹熊氏は、ますますエヴァと庵野秀明に深くはまりこんだ。自宅に庵野君を呼んでかいがいしく自作の野菜カレーを振る舞い、ディープな話に夜を明か

の姿を、岡田は自身が運営していたサイト「おたくウィークリー」に投稿された「エヴァからの生還」で、次のように揶揄的に描く。

 たとえば岡田斗司夫と、編集家・竹熊健太郎のやり取りがそうだ。庵野秀明へのインタビュー本『スキゾ・エヴァンゲリオン』、『パラノ・エヴァンゲリオン』を編集した竹熊

い。

 結果的に、『エヴァ』は激しい毀誉褒貶にさらされた。しかし『エヴァ』をめぐる対立は、活発な議論の応酬というより、むしろ、感情的な個人攻撃としてなされた色合いが強

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  この文章全体についていえることだが、岡田氏は『エヴァ』にハマッた人間を、あたかも正常な判断力を失って悪質な新興宗教にはまった愚かな人間であるかのように書かれ

ているようだ。(中略)岡田氏よ、あなたが庵野氏や『エヴァ』に対してどのような「思い」を抱こうがそれは勝手だ。しかし他人をこんな形であなたのエゴに巻き込まないで

ほしい。直接「自分の意見」として文章化する度胸もなく、(中略)『エヴァ』に肯定的な人物を揶揄する形でしか「思い」を表明できないのは、これこそまさに「病的な態 度」だと思うが、いかがか。

 もう一点、こうした対立があまりに生々しく記録されているのが、『国際おたく大学』に寄稿された評論家・唐沢俊一によるマンガ評論家・伊藤剛への批判──というよりも中傷

である。この評論の中で唐沢は、エヴァにハマるオタクの典型として伊藤を取り上げ、伊藤がパソコン通信に投稿した「あの映画は、きわめてポジティヴで、いままで僕が忘れて

いた〝ちから〟に溢れたものだと思う。なにより、絶望的な孤独の煉獄の果てに、きっちりと他者と出会うあのラストは、断じてハッピーエンドだと思っている」といった『エ

ヴァ』評などを引きつつ「シンジくんと自分をほとんど同一視するかのような発言をする」伊藤を批判する。しかしそれは、伊藤の持病を詐病とするなど、多分に虚偽と中傷を含

む人格批判的なものであった。同論考に対し、のちに伊藤から名誉毀損訴訟が行われ、唐沢は編者の岡田斗司夫らとともに公式に謝罪している。

『エヴァ』をめぐる対立の焦点

 それにしても、なぜ『エヴァ』はここまでの感情的な対立を巻き起こしたのか。それは、それが、この作品の是非についてではなく、作品の受容態度そのものをめぐって争われ ていたからだった、と説明することができる。

 すでに紹介したように、岡田が定義するオタクの態度には、作品を、一歩引いて客観的に、若干、シニカルに眺める視点が必要不可欠である。

 そんな「エリート」としてのオタクの視点からすれば、『エヴァ』の終盤の展開は「制作スケジュールが破綻してメチャクチャになった作品」として笑うべきものであり、同時

に、「一般大衆」がトレンディドラマの主人公に没入するのとほとんどかわらない理由で『エヴァ』の主人公・碇シンジに感情移入する視聴者は、オタクの名に値しない、批判さ れるべき存在と映ったのだろう。

 しかし『エヴァ』終盤や劇場版が、そうした岡田の想定するオタク的姿勢を観客に放棄させ、劇中で苦悩する碇シンジの姿に素朴に感情移入させるだけの内実を、切実さを、同 時代性を獲得していたこともまた事実だろう。  そうした受け手にとってみれば、岡田的なオタクの態度は、どうしようもなく冷笑的なものと映ったに違いない。

 ゆえにそれは作品への評価ではなく、作品を評価する個人の人格へと及ぶ。『エヴァ』をめぐる論争が激化したのは、おそらくこうした理由からだと思える。

オタク世代論──オタク第三世代の登場

年代生まれ──『エヴァ』、声優、ゲーム

年代生まれ──『ヤマト』、『ガンダム』などのアニメ

年代生まれ──『ウルトラマン』、『仮面ライダー』などの特撮

 ところで、こうした『エヴァ』をめぐる対立のなかで、オタクの世代問題というテーマもクローズアップされてくる。オタクたちの世代と関心領域は、おおまかに、 ・第一世代:昭和 ・第二世代:昭和 ・第三世代:昭和  と定義される。

  同じオタクでも生まれた年代によって守備範囲の中心、いわゆるホームポジションの違いとして、形をとどめている。

 右の区切りは、『オタク学入門』を参照したものだが、

50 40 30

  同じオタクでも生まれた年代によって守備範囲の中心、いわゆるホームポジションの違いとして、形をとどめている。

 と彼自身が語るとおり、当初、岡田は、このような世代差を単なる対象の差として考えていたフシがある。つまり岡田が所属するオタク第一世代がSFや『ウルトラマン』、

『仮面ライダー』に向ける視線と同じものを、第二世代は『機動戦士ガンダム』に、そして第三世代は『エヴァ』に向けていたと考えていたのである。

 ところが、『エヴァ』で明らかになったのは、第一世代と第三世代では、もちろん例外やグラデーションはあるものの、作品受容態度そのものが大きく異なるという事実だっ

た。オタク第三世代は(筆者もまた第三世代のひとりであり、またその典型だと自負しているが)、上の世代とは異なり、ごく普通に、ベタに、綾波レイや惣流・アスカ・ラング

レーといったキャラクターたちに萌え、あるいは主人公・碇シンジの姿に自分を重ね合わせて「シンジ君は僕なんですよ!」と叫んでいた。

オタク第三世代は、オタクではない)との結論に至る。

 ゼロ年代に入ると、東浩紀は、そうしたオタクの世代間の作品消費の差を分析し、現代社会分析へと繫げた『動物化するポストモダン』を著し、岡田斗司夫もまた、各オタク世

代に本質的な差異を認め『オタクはすでに死んでいる』(

セカイ系が名指そうとしたもの

 ここまでの説明で、ぷるにえがセカイ系という語で名指そうとした「エヴァっぽい(=一人語りが激しい)」の正体も大まかにつかめたのではないだろうか。

 その言葉が示すのは、とりわけ後半の『エヴァ』であり、「オタクの文学」としての『エヴァ』である。「世界の中心」=自分の了見の及ぶ範囲の中心、つまり自分の座る体育 館のパイプ椅子で、「アイを叫んだ」=激しく一人語りした『エヴァ』である。そこに現れた自意識というテーマである。

 そして、『エヴァ』後半の表現やテーマを受け継いだ作品こそが、ゼロ年代に入るとエヴァっぽい=セカイ系として名指されることになったと言える。

第三次アニメブーム

 さて、『エヴァ』という作品とそれをめぐる状況、そして「エヴァっぽさ」の正体はおおまかに概括できたと思うので、以下、『エヴァ』の後についてまとめてみたい。

『エヴァ』の大ヒット(とりわけ、深夜枠での再放送が高視聴率を記録したことによる深夜アニメ枠の確立)により、アニメの制作本数は大きく増加し、第三次アニメブームと呼 ばれる時代がやってきた。それはきわめて豊穣で多様なアニメ作品が生まれた時代だった。

 それもまた、『エヴァ』の破綻が生んだ事態と言えるかもしれない。大ヒット作が生まれれば、二匹目のドジョウを狙おうとする動きが出てくるのはどのメディア、ジャンルで あろうとも変わらない。『エヴァ』以後も、当然、そのような動きが現れた。

 だが、たとえば『機動戦士ガンダム』であれば「巨大ロボットを用いたリアルな戦争描写」と、そのヒットの要因を簡潔にまとめることができた。だからこそ『ガンダム』以

後、『太陽の牙ダグラム』や『装甲騎兵ボトムズ』、『超時空要塞マクロス』など、リアルロボットものと呼ばれる作品群が隆盛した。

 ひるがえって『エヴァ』はどうか? すでに述べたように『エヴァ』は前半と後半で、まったく異なる顔を持つ作品であり、しかも、後半といえば、ロボットアニメにもかかわ らず、主人公がロボットにも乗らず自問自答をしているだけ、という作品である。

  なぜ、こんなものがヒットしたのか? 『エヴァ』に熱狂した当時の視聴者たちでさえ未だ整理がついていないのだろう。おそらく、当時のスポンサーやプロデューサーたちの困

惑はもっと大きなものだったはずだ。だから結果として『エヴァ』の大ヒットによって、かえってアニメは多様化した。ポスト・エヴァを目指し、かえってまったく『エヴァ』的 ではない作品が生まれた。

 ひとつに、『エヴァ』の出発点と同じく、ウェルメイドなオタク向けアニメを目指した作品群。緻密な作画や膨大な設定こそを『エヴァ』のコアと見なすものであり、『カウ

ボーイビバップ』や『天空のエスカフローネ』などは(少なくとも前半は)テレビシリーズとは思えないクオリティと言われた『エヴァ』の映像を上回る作画密度を持った作品で ある。他にも、『勇者王ガオガイガー』、『ガサラキ』、『ベターマン』、『THEビッグオー』などがある。

 あるいは『エヴァ』の実験的な映像表現の系譜を受け継ぎ、寺山修司的な前衛演劇の演出手法を取り入れた『少女革命ウテナ』、インターネットの黎明期に、ネットを題材にす ぐれたSFを展開した『serial experiments lain』など、この時期のアニメの多彩さを語ろうと思えば、新書一冊では到底足りない。

 ともあれ、それでも強引にまとめてしまえば、これらポスト・エヴァの作品群が継承しようとした『エヴァ』とは、前半の『エヴァ』、すなわち膨大な設定群や謎めいたキー ワードによるストーリー・テリング、ハイクオリティな作画といった部分であると言える。

 また『エヴァ』のルーツとして、『トップをねらえ!』や『王立宇宙軍』などのガイナックス作品や、富野由悠季監督による『機動戦士ガンダム』や『伝説巨神イデオン』、庵 周年イベントが盛り上がるなど、『エヴァ』のヒットにより、過去作品を振り返る動きが起こった。

野がアニメーターとして参加した『超時空要塞マクロス』などが見直されることとなり、そして1999年にはガンダム・ビッグバン・プロジェクトと題して『機動戦士ガンダ ム』生誕

 





 にもかかわらず本書は大ヒット作となり、創刊して数年の後発レーベルであった電撃文庫が、富士見ファンタジア文庫に代わって業界一位の座につく原動力となった。同レーベ

反するものだった。キャラクターも、マンガ的な誇張はされておらず、いわゆる萌えキャラが登場するわけでもない。

らに時系列も視点もバラバラな5つのパートから、ひとつの事件の真実をおぼろげに浮かびあがらせる物語は、とにかく読みやすさが第一、とされていた当時の風潮にまったく相

 本作は、当時のライトノベルの「売れ線」からは大きく外れたシリーズだった。舞台がファンタジー世界でなく現代という点だけではない。非常に凝った言い回しを多用し、さ

ろ、本を読んでいる読者の分身とも言える登場人物たちによって語られた小説である。

れる闘争に一瞬だけ遭遇するが、結局、何の力も持たない彼らは、自分たちが遭遇した物語の全貌を知ることなく、再び日常へと帰還していく。そんな特別な人間ではない、むし

 という一文に象徴されるように、ファンタジー世界の英雄たちではなく、等身大の高校生によって語られる作品である。平凡な少年少女が、ふとした偶然から世界の裏側で戦わ

  でも、私たち一人ひとりの立場からその全貌が見えることはない。物語の登場人物は、自分の役割の外側を知ることはできないのだ。

  起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際は実に単純な、よくある話にすぎないだのだろう。

 ライトノベルレーベル電撃文庫の新人賞である電撃ゲーム小説大賞の第4回大賞受賞作となった上 遠 野 浩平『ブギーポップは笑わない』という作品である。



年代中盤、このメディアでは水野良『ロードス島戦記』や神坂一『スレイヤーズ』といったファンタジー小説が主流だった。ここではないどこか遠い世界の、私とは違う英雄

ア文庫などがある。くわしくは新城カズマ『ライトノベル「超」入門』などを参照されたい。

 まずはライトノベル。中高生を主なターゲットとするイラストのついた文庫書き下ろし中心の小説作品のことで、現在、代表的なレーベルとしては電撃文庫や富士見ファンタジ

ファンタジーから現代へ──『ブギーポップは笑わない』

それはライトノベルと美少女ゲームというメディアのなかに見つけることができる。『ブギーポップは笑わない』と『雫』という作品である。

 むしろポスト・エヴァを狙ったアニメよりも『エヴァ』と同時並行的に世に出た作品の方が、かえって自意識というテーマを正確に受け継いでいるように思えるのが興味深い。

生むまでにはならなかった。

テーマを受け止めたアニメとして前述の『ウテナ』や『lain』などの例外はもちろんあったが、市場的には大ヒットとまでは至らず、さらなる後続作が次々と生まれるような風土を

 そのようななかで、アニメにおいては『エヴァ』後半のオタクの文学というテーマは受け継がれずに終わってしまったと言って、さしあたり問題はないはずである。そうした

20

たちの物語である。ところが、1998年に刊行された作品によって、その光景は大きく変わる。

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しゃくがん インデックス

 にもかかわらず本書は大ヒット作となり、創刊して数年の後発レーベルであった電撃文庫が、富士見ファンタジア文庫に代わって業界一位の座につく原動力となった。同レーベ

ルは、その後も高橋弥七郎『灼 眼 のシャナ』や鎌池和馬『とある魔術の禁書目録 』といったヒット作を次々送り出し、現在もその座は不動のものとなっている。 「ゲーム」から「小説」へ──『雫』  一方、1996年に『雫』というパソコン用ゲームが発表された。

 女性キャラクターの性描写をメインにする美少女ゲームというポルノメディアから発売された作品だったが、日常に飽きた少年が「地球破壊爆弾」による人類皆殺しを妄想す る、という異様なシーンから始まる物語によって、一部でカルト的な人気を誇るようになる。

』、『ToHeart』は、多くの人々がゲームと聞いて連想する、キャラクターを操って敵をやっつけたりする

『雫』を送り出したメーカーLeafは、その成功をきっかけに新作を矢継ぎ早に発表。なかでも1997年の『ToHeart』は爆発的な大ヒットを記録し、現在の「萌え」と呼ばれ る消費形態の基礎を形作ることになる。 きずあと

 しかし、リーフ・ビジュアルノベル三部作と銘打たれた『雫』、『 痕

ような、あるいは将棋やチェスのような作品ではない。チュンソフトの『弟切草』『かまいたちの夜』というサウンドノベルを参考にしたとおぼしき本ゲームにおいて、プレイ

ヤーは、画面にキャラクターのイラストとともに表示されるテキストを読むためにこそ、ゲームをプレイする。時々、選択肢が現れ、それによって展開、結末が変化するという点 が「ゲーム的」だが、その体験はむしろゲームというより読書に近い。

『雫』の形式は、その後、多くの美少女ゲームに踏襲され、以後、このジャンルは、それまで持っていたゲーム、あるいはポルノメディアという役割に加えて、ライトノベルと並 ぶ、オタクたちの「活字メディア」としての役割を担うこととなった。

映像から活字へ──オタク文化の大変動

  ゼロ年代、わけても前半のオタク文化は、ノベルゲームとライトノベルが切り開いたといってもけして過言ではない。前者からは『AIR』、『Fate/stay night』、『ひぐらしのな

く頃に』といった大ヒット作が次々と送り出され、あるいは2004年になるとライトノベル・ブームと呼ばれる時代が到来する。

 すでに確認したとおり、ゼロ年代の文化を代表するこの二大ジャンルは、『エヴァ』ブームの渦中に、ほぼ同時期に大きな変動を迎えた。けして大手とは言えない会社から送り

出された作品が口コミで大ヒットへと繫がり、業界勢力図が、そして、ジャンルのトレンドが大きく塗り替わるという事態である。そのきっかけとなった作品は、『雫』も、『ブ ギーポップは笑わない』も、『エヴァ』と同じく、青少年の自意識を活写した作品だった。

世紀に生まれたニュータイプの人種だと思うのだ。つまり映像に対する感受性を極端に進化させた眼を持つ人間たちがオタクなのだ。

 ここで再び、岡田斗司夫の『オタク学入門』を参照する。岡田は同著のなかで、

 「映像の世紀」と呼ばれるこの

であり、それにもっとも適していたのはアニメではなく美少女ゲームとライトノベルだった、と。

「萌え」というキーワードで切り取るのが、一番わかりやすいのだろう。『エヴァ』以後、時代の潮流となったのは美少女キャラクターを消費する「萌え」という作品受容の態度

 では、なぜ、ゼロ年代はアニメの時代ではなくライトノベルや美少女ゲームの時代となったのか。

ゲームに劣るものではない。

 第三次アニメブームの最中に作られた作品たちは、けして質の面で、『ブギーポップは笑わない』をはじめとするライトノベルや、『雫』、『痕』、『ToHeart』といった美少女

 と述べている。ところが『エヴァ』という大ヒット映像作品の後に訪れた新世紀、ゼロ年代前半のオタク文化において中心となったのは映像ではなく活字のメディアだった。

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 しかし、もう一点だけ、それを補う視点を筆者は提供してみたい。

『新世紀エヴァンゲリオン』でオタクとなった若い世代を真にとらえていたのは、前半の『エヴァ』ではなく後半の『エヴァ』──つまり「オタクの文学」としての『エヴァ』だっ

た。だからこそ、内面を描くメディアとして発達した小説、活字こそが、ポスト・エヴァとしてゼロ年代を牽引したのだ、という。

第2章 セカイっていう言葉がある 2000─03年

オタク文化の自問自答の軌跡

「セカイ系」とは何かを問うため、前章で私たちは、現在、一般に流通しているセカイ系の定義を破棄した。そして、ぷるにえの定義に戻り、「エヴァっぽい」という言葉の意味

年)というポスト・エヴァの時代のなかで作られ、セカイ系と名指されることになった作品の内実を見つつ、さらに、その具体的

が、『エヴァ』後半、及び劇場版に見られた、オタクの文学としての『エヴァ』を意味することを確認した。  この章では、ゼロ年代初頭(2000年から

年代後半のオタクたちの言説空間は、『エヴァ』に支配されていたと言っても過言ではない。ラジオで、アニメ誌で、パソコン通信で、プロもアマチュアも、皆、『エヴァ』

な内容に迫っていきたいと思う。  

03

そ しゃく

ろかオタク向けの技術書など一般書籍までもが美少女で埋め尽くされ、現在ではもはやオタク=萌えと定義しても過言ではない。

 こうした変化の認識は、少なくともゼロ年代中盤には共有されていた。たとえばマンガ原作者、ライターの鶴岡法斎は「オタク引退、ていうかリストラ」(2005年6月 日)と題された自身のブログのエントリーで、

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 ともかくも、『エヴァ』以前は、あくまで、ロボットなどと並ぶ、オタクの好む一要素にすぎなかった美少女は、『エヴァ』後、一気に全面化した。マンガやライトノベルどこ

よって現実化するという、皮肉な事態がそこにあった。

生とぶつかったりするような毎日が繰り広げられる。「おまえたち、本当は美少女キャラクターさえいればいいんだろう?」という庵野秀明の悪意が、まさに当の『エヴァ』に

 美少女ゲームで繰り広げられるのは、まさにこの学園エヴァのような光景である。舞台は大体、現代の学園で、平凡な主人公を幼なじみが起こしに来てくれたり、通学路で転校

りの学園コメディを繰り広げるという、ありえたかもしれない世界である。

大ロボットも、使徒という敵も存在せず、「主人公のシンジが通学途中にぶつかった美少女はなんと同じクラスの転校生で……」といったようなマンガやアニメの「お約束」どお

 TV版『エヴァ』の最終話には、一般に「学園エヴァ」または「学園ゲリオン」と呼ばれるエピソードが唐突に挿入される。そこで描かれるのはエヴァンゲリオンなどという巨

「美少女ゲーム」だったと言っても過言ではないはずである。

 時代を一言で言い表したり、あるジャンルに代表させることは、常に危険と難しさが伴う。しかし、ポスト・エヴァからゼロ年代前半のオタク文化を牽引したのは「萌え」と

萌えと美少女ゲームのゼロ年代──『ToHeart』

 言い換えるなら、それは、オタク文化が、『エヴァ』という特異なヒット作を咀 嚼 していく軌跡を追うことだと言えるかもしれない。

年代前半のオタク文化を概観してみよう。

品たちを読むことで『エヴァ』が後世の作品に与えた影響を浮き彫りにしつつ(それはまたぷるにえの言う「エヴァっぽい」の内実をさらに詳しく見ていくことでもある)、ゼロ

 しかし、筆者の見る限り、いずれもポスト・エヴァという時代を色濃く反映した作品だと言うことはできる。そこで、以後、ゼロ年代にヒットし、のちにセカイ系と呼ばれた作

 これらの作品が、セカイ系という言葉で一緒くたにできるほど共通要素を持つか、という疑問は、すでに何度も述べた。

ことになる。

郎を皮切りとした、佐藤友哉、西尾維新という後の『ファウスト』作家、そして2002年のアニメ『ほしのこえ』などを挙げることができ、それがやがてセカイ系と名指される

 そうした作品として、2000年のマンガ『最終兵器彼女』や美少女ゲーム『AIR』、2001年の小説『イリヤの空、UFOの夏』、あるいは同年にデビューした舞城王太

る。

 むしろ『エヴァ』的な要素、特に後半の展開を受け継いだ作品が数多く出てくるのは、空前の『エヴァ』ブームも終わり、忘れられはじめたゼロ年代に入ってからのことであ

について賛否両論の激戦を繰り広げていた。そのような過熱した状況下では、作品を冷静に分析することもまた難しかっただろう。

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 唐沢(唐沢俊一:引用者註)さんと電話で話す。  唐「いまの『オタク』の定義ってのは『萌え』のマニアのことを指すんだよ」と。  実例として怪獣オタクで有名な人が職場で「オタクじゃないから」といわれた話などを。  唐「だから俺はオタクじゃなくて「昔のアニメのマニア」とか「古本マニア」ってことになるんだよ。  鶴岡「俺はマンガマニアですか」  薄々感づいていたがオタクの定義が狭義なモノになっていたここ数年。

 というわけで俺はオタクではなくなりました。無自覚のうちに。  怪獣とかマンガとか変な音楽が好きな奴、と認定してください。

 といった、のちの岡田斗司夫の新書『オタクはすでに死んでいる』に繫がるかのような発言を残している。

 ゼロ年代初頭、そんな萌え、美少女ゲームのムーブメントは絶頂を迎えていた。そのムーブメントを巻き起こしたのが1997年の『ToHeart』だった。

 プレイステーション、セガサターンといった次世代機の登場などにより、ゲームの表現力は年々進化し、それにともない開発費も高騰の一途を辿り、また開発に携わる人数も増

年代後半からゼロ年代前半にかけて、若い才能がその力を開花させる場として機能したと言える。

加していた。それに対して、テキストとCGで成り立つ美少女ゲームは、複雑なプログラムを必要とせず、ごく少数の人間で、一般的な機材を用いて開発することが可能であっ た。そのため玉石混交であったが、

もと なが まさ



 萌えの起源を記すのは難しい。しかし「学園エヴァ」とともに、この『ToHeart』が切り開いた、パンチラでもHシーンでもなく、美少女との日常のやりとりの中にこそ、快楽を

 と述べている。

と移行したのだ。

純な問題ではない。ゲームの面白さを主に感じる部分が、フルサイズのCGが表示されているイベントシーンではなく、立ちキャラクターと背景が表示されている日常シーンへ

  ポルノグラフィとしての美少女ゲームも大きく変質した。ポルノ描写の地位が主から従へと移行したのだ。これは、ポルノ描写が薄くなったとかおざなりになったとかいう単

 美少女ゲームのシナリオライターである元 長 柾 木 は、『美少女ゲームの臨界点』に寄稿した「回想──時代が終わり、祭りが始まった」で、

レイの目的になったのである。

の下校時の寄り道であったり、そうした日常会話こそが、ゲームの楽しみとして発見された。性的なシーンを見るための手段でしかなかった、恋人になるための過程が、ゲームプ

 むしろ、そこでプレイヤーが快楽として見いだしたのは、美少女キャラクターとの日常でのたわいもないやりとりだった。たとえば、幼なじみとの登校風景であったり、放課後

略」するのが目的であり、物語的側面は後退している。しかし、これは性的なシーンを見ることを目的としていた『雫』以前への回帰ではない。

 それに対して、第3作『ToHeart』は、いわゆる学園ラブコメである。プレイヤーは幼なじみの少女やお嬢様の先輩、あるいは部活動に励む後輩や、メイドロボット(!)を「攻

興宗教オモイデ教』を下敷きにした超能力サスペンス、第2作『痕』は、鬼の伝説が伝わる地方の街を舞台にした伝奇SFだ。

 Leafのビジュアルノベルシリーズは、ポルノメディアであった美少女ゲームのなかにあって、小説のような物語を展開し人気を得たと述べた。『雫』は、大槻ケンヂの『新

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見いだす姿勢こそが、大きな転換点となっているのは間違いないだろう。

年代末からゼロ年代初頭にかけ、萌えと美少女ゲームの時代を作り上げていく。このなかで、美少女キャラクターとの会話=「かけあい漫才」が異様にふくれあがり、物

『ToHeart』以後、それこそ『機動戦士ガンダム』以後のリアルロボットアニメの隆盛を見るかのように『とらいあんぐるハート』や『みずいろ』など後続作が作られ、これらの作 品が、



まった点について、ライターの佐藤心は、評論「オートマティズムが機能する 2」(『新現実』Vol

えだじゅん

2所収)で、現に、選択肢を選び間違えて、攻略していたヒロインたち

  注:ただし、第4章で詳しく分析するが、『AIR』がセカイ系として認識されるようになったのは『ゲーム的リアリズムの誕生』出版以後のことかと思われる。

論のひとつの典型として見なされている。

能性にとどまること──『AIR』について」(初出は『美少女ゲームの臨界点』、のち『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』所収)は、セカイ系をめぐる議

 このようなゲームをプレイしているユーザーを物語のなかに織り込んでいく手法は、のちの『AIR』で頂点に達する。東浩紀がこの点について詳しく論じた「萌えの手前、不

ての主人公という要素が、『ONE』をはじめとするKey作品のなかで再び登場してきたと言える。

に忘れ去られてしまったというプレイヤーの記憶、実体験が説得力を与えていると分析している。この意味において『ToHeart』においては希薄化していた、読み手、私の分身とし

.

 また、学園世界から、不思議な世界へと唐突に移行するというような不条理な展開が、具体的にはほとんど説明されることがないにもかかわらず、ユーザーに受け入れられてし

る。

後に制作した『Kanon』、『AIR』などKey作品と総称されるゲームにも受け継がれていく。そして、これらの作品が、のちにセカイ系と名指される理由にもなってい

 この日常的世界と幻想的世界が対比され、なんらかのきっかけにふたつの世界が直結するという構造は、『ONE』のシナリオライターである麻 枝 准 をはじめとするスタッフが



の見る夢という形で挿入される。そして選択肢の選び方によっては、主人公は、この永遠の世界に唐突に閉じこめられ、ヒロインたちから忘れ去られてしまうことになる。

が続く日常の世界に対比されるものとして「永遠の世界」という謎めいた世界を導入した点で大きく異なる。「永遠の世界」は、無限に空だけが続く空間として描写され、主人公

 とりわけ、この泣きゲーの嚆 矢 となる『ONE』は、ゲームシステムやヒロインとの日常のかけあいなど、『ToHeart』の要素を踏襲しつつも、美少女キャラクターとのかけあい

こう

て少女の苦悩やトラウマを主人公が癒やすことで、ふたりは添い遂げるという構造を持った一連の作品を言う。

の作品の登場である。おおざっぱに言えば、プレイヤーは美少女キャラクターとのたわいもない日常を過ごしながら、やがて彼女が悲劇的な背景を持つことに気づいていく。そし

『ToHeart』は、その後の美少女ゲームの基本フォーマットとなり、多くのフォロワーを生んだが、しかしそのなかで再び物語への揺り戻しが起こる。「泣きゲー」と呼ばれる一連

『ToHeart』から『ONE』へ

ey作品と総称する。

  注:正確に言えば、Tactics という会社で『ONE』を制作したスタッフが、その後新たにKeyというブランドを立ち上げ『Kanon』以降の作品を送り出す。しかし、本書では、議論をわかりやすくするため、K

る。

 そんな『ToHeart』に続くムーブメントとして登場したのが、『ONE~輝く季節へ~』、『Kanon』、『AIR』など、一般的にKey作品として総称される作品群であ

どと総称される作品まで続いている。

語上、さして必要のないやりとりが数時間にわたって展開されるゲームも珍しくなくなっていく。この流れは『らき☆すた』や『生徒会の一存』など、後の章で解説する日常系な

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奇妙な恋愛マンガ──そのタイトルは──

 一方、美少女ゲームが全盛を迎えていた2000年に、週刊『ビッグコミックスピリッツ』で、一作の奇妙な恋愛マンガの連載が始まる。作家は、高橋しん。

 その物語は、北海道の高校に通うシュウジとちせというカップルが学校の長い坂を登校するシーンから始まる。第1話は、ちょっとした偶然から「カップル」になったものの、

お互い、付き合うといっても何をしたらいいかわからない高校生ふたりのぎこちない恋愛模様が描かれる。内気でおどおどとしたちせに、ついつい強い言葉をかけてしまうシュウ

ジや、子供っぽい体型として描かれながら、ごく普通にセックスについても意識するちせの姿からは記号的、あるいは美少女ゲーム的な「萌えヒロインと主人公」ではなく、現代

に生きる等身大の高校生を写実的に描き出そうとする姿勢が感じられる。そんなふたりが、無理にカップルらしいことをしようとしてギクシャクし、別れ話が持ち上がるなかでお 互いの本音を打ち明けあい、改めて彼氏彼女になろうとするまでが第1話だ。  連載開始時、本作は、2話連続掲載となっていた。

 そして続く第2話、主人公たちの住む北海道が突如として戦争に巻き込まれる。札幌に現れた爆撃機の大編隊が都市部を空爆する。そんな最中、シュウジは、戦場で、身体から 金属の翼と機関砲を生やして「敵」と戦うちせと出会ってしまう。彼女は、自衛隊により最終兵器として改造されていたのだ──。  そこでようやく本作のタイトルが示される。『最終兵器彼女』。

年代日本の郊外風景へのフェティッシュな視線もま

 ごく普通の恋愛ものだったはずの物語が、続く2話で、突然、戦争SFへと変貌するかのようなこの展開は、きわめて衝撃的なものである。

  注:『新世紀エヴァンゲリオン』では、2015年という近未来を舞台にした物語にもかかわらず、電柱、電線といった風景が印象的に描かれていた。こうした、 た、『ほしのこえ』などセカイ系と名指される作品の多くに共通する要素である。本作でも北海道の郊外風景が印象的に描写される。

『最終兵器彼女』の描く戦争

『最終兵器彼女』では、突如、札幌がロシア製と思われる爆撃機の編隊により無差別爆撃され、

万人以上もの死者、行方不明者が発生する。しかし、この軍隊は何者なのか、日

 しかし、それ以上に、本作を「セカイ系」と名指す人々は、その理由として戦争描写のリアリティの欠如と設定の欠落を挙げる。

が、モノローグの形式でしばしばページを埋め尽くすように描かれるからだ。

に描かれている。シュウジの、ちせを求めようとする一方で、彼女を傷つけることへの恐れ、あるいは最終兵器となって傷ついていく彼女に何もできない自身の無力さへの嘆き

 セカイ系の代表作とされる本作は、たしかに「一人語り」が激しい。前述したとおり、ちせとシュウジは、ラブコメというよりも少女マンガ的、さらにいえばリアリスティック

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 戦争です。最終兵器です。そういうものだと思ってください。

ればならなかったか、ほぼ説明がない。

 そしてまた、質量保存の法則さえも明らかに超越した「最終兵器」ちせを支える超科学はどのようなものなのか、いかにしてもたらされたのか、そしてなぜちせが、選ばれなけ

繰り返しの中で描かれる)。

だ、最終兵器となったちせだけが、戦争が起こるたび、どこかへ出かけていく(後半に入ると、日常生活も変化を余儀なくされるのだが、少なくとも序盤では、戦争は、日常との

の作品では、爆撃したのは「国籍不明機」ということで納得されてしまい、「みんなも暗黙の了解で空襲にふれるのはやめ」、シュウジは何ひとつ変化のない日常を過ごす。た

それでも、もし、都市部への無差別爆撃が行われる状況なら、日本はきわめて危機的な立場に置かれており、原油の輸入などに支障をきたしてもまったくおかしくない。しかしこ

 そして、都市部が爆撃されたというのに、シュウジたちの日常生活はほとんど変わらない。現実には、第二次世界大戦以降、都市部への無差別爆撃は起こりえなくなっている。

われているのか、最後までまったくわからないままなのだ。

本と何が原因で争っているのか、物語を通じて一切、説明がない。日本はどこかの軍隊と、世界大戦規模の戦争を繰り広げているのだが、その戦争が、いかなる対立に基づいて行

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 とでも言うような乱暴さである。  ちせとシュウジの恋愛描写とはまるで正反対に、その戦争描写、SF描写は恐ろしいほどリアリティを欠いている。

 しかし、一読者として正直に告白すると、そのような描写に(矛盾するようだが)リアリティを感じ取ったのも事実である。たとえば著者は

13 代、

歳で阪神・淡路大震災やオウム事

代の皮膚感覚としてのリアリティを獲得することができた

件に遭遇した。まるで戦争でも起きたかのように大都市が壊滅し、あるいは東京が大混乱になる。しかし、その日も次の日も日常は続き、学校はあり、昼の時間にテレビをつけれ ば「笑っていいとも!」が流れていた。『最終兵器彼女』の戦争は、その記憶を思い出させた。  つまり『最終兵器彼女』で描かれる戦争は、政治的、軍事的リアリティをまったく排除することで、かえって と言っていいかもしれない。

『エヴァ』が変えた戦争──ホワイトベースの不在  このような『最終兵器彼女』の戦争描写は、明確に『新世紀エヴァンゲリオン』の影響であると指摘できる。

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らの独立であることは、視聴者にも登場人物にも明らかにされていた。アムロたちの当面の敵であるシャアがホワイトベースを狙うのも、最新兵器「ガンダム」を破壊するためで

 そして敵。『新世紀エヴァンゲリオン』を特徴づけるもうひとつの要素が、使徒という正体不明な敵である。『機動戦士ガンダム』の敵、ジオン公国の戦争目的が、連邦政府か

使徒とは何か?──敵の不在

 結果として、碇シンジは、学園生活という日常と使徒迎撃戦という非日常が同居する奇妙な戦場を生きることになる。

やってきた時だけ、ロボットに乗って出撃する、という構造を採用している。

ターロボ』など、『ガンダム』以前の作品(スーパーロボットもの、とも総称される)のように、光子力研究所や早乙女研究所などの基地で日常生活を送りながら、敵の侵略者が

ア)から、戦場という非日常の世界へと船(ホワイトベース、ソロシップ、アーガマ)に乗ってこぎ出していくという流れを踏襲していない。むしろ、『マジンガーZ』や『ゲッ

デオン』、『機動戦士Ζガンダム』など、リアルロボットものと総称される作品群の系譜にある。にもかかわらず、そのドラマにおいては、日常(サイド7、ソロ星、グリーン・ノ

『エヴァ』の登場人物は、内省的な主人公・碇シンジをはじめ、リアリスティックに描写されている。それは明らかに『機動戦士ガンダム』や、その文脈を受け継ぐ『伝説巨神イ

メを繰り広げるのである。

中学校に通う子供として過ごす。そして、使徒という敵が現れた時だけパイロットとなり、戦いが終わると、また中学生に戻り、悪友たちと遊んだり、同級生の少女たちとラブコ

物語である。そのため碇シンジは、エヴァで最初の敵を倒した後、第3新東京市の中学校に入学することになる。依然として、第3新東京市という社会秩序は維持され、シンジは

 一方、『新世紀エヴァンゲリオン』はどうか。ホワイトベースに乗って敵から逃げる『機動戦士ガンダム』と異なり、同作は第3新東京市という都市で迫り来る使徒を迎撃する

は、子供でありながら大人になることを求められるのである。

に、大人たち抜きで、軍という社会を再現する。つまり子供でありながら、艦長、整備員、パイロットといった大人の役割を担わされていく。ガンダムに乗ったことで、アムロ

残った若者たちだけで運用しながら、敵軍からの逃避行を続けることになる。ここでアムロたちの住んでいた社会はいったん完全に破壊される。そして『十五少年漂流記』のよう

 しかし『ガンダム』では、敵軍の攻撃により、主だった大人たちは全滅、主人公のアムロたちは、生まれ育ったサイド7という土地を捨て、ホワイトベースという軍艦を生き

『ガンダム』も『エヴァ』も、内気な少年が、突然、父親の作ったロボットで戦うことになるという導入自体は同じである。

 順に見ていこう。

イトベースの不在」と「敵の不在」という2点によって指摘できる。

『エヴァ』は、オタク文化における戦争のイメージを更新した。『エヴァ』以前のロボットアニメにおけるスタンダードである『機動戦士ガンダム』と比較する時、それは「ホワ

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あった。

 しかし『エヴァ』の使徒は、そのような理解を一切拒むモノとして描かれる。何かわからないけど、襲ってくるから戦わないといけない存在であり、しかも、その形状も青い八

面体であったり白い模様の描かれた黒いボールであったり、あるいはただの光であったり、と一切の感情移入を拒む、「敵」という概念がそのまま具現化したような存在として描 かれる。

 ゆえに、いやおうなく地球連邦軍の一兵士となり、ホワイトベースの一員となって時に生活必需品まで不足するような戦いを余儀なくされるアムロと異なり、シンジは戦場につ いても敵についても、具体的なイメージを抱くことができない。

 シンジの戦場はいつもどおり学校もあればコンビニもある場所で、なぜ敵は襲ってくるのか、なぜ戦わなければならないのか、まったくわからないのである。結果的に思考は空

転し、抽象化し、自分の問題に行き着いてしまう。碇シンジが、観念的な自意識の問いにとらわれるのは、第3新東京市と使徒がもたらす必然なのである。

『無限のリヴァイアス』の健全さの根源

 セカイ系とは「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」作品のことだと、ぷるにえは言った。しかし『エヴァ』の影響を濃厚に受け、また少年のモノローグを多用しているにも かかわらず、セカイ系と名指されることが少ない作品がある。『無限のリヴァイアス』という作品である。

 1999年に放映された同作は、その意味で『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物(少なくともそれと同等に屈折した内面を持つ少年少女たち)によって、もう一度『機動戦 士ガンダム』を作り直した作品と捉えられる。

 大人たちが全滅してしまい、少年少女たちだけで操艦されることになった宇宙船が些細な誤解から軍にテロリストとして攻撃されることになる、という物語だ。

 大人不在のリヴァイアス号では様々な対立が起こり、『十五少年漂流記』というより『蠅の王』の如き様相を呈する。暴行、殺人、レイプなど、きわめて陰惨な描写もなされる が、しかし最終的には少年少女たちが対立を乗り越え和解に向けて終わる、きわめて健全な物語となっている。

 本作がセカイ系と名指されない理由は彼らがリヴァイアス号という疑似社会で大人として振る舞うことを要求されたからだろう。そしてまた差別、いじめや食糧難など、つねに

具体的な問題への対策を余儀なくされた点、あるいは、自分たちをテロリストと誤認して襲ってくる政府、という明確な敵の顔を与えられていた点に求められる。その点で『リ ヴァイアス』は『エヴァ』と大きく異なる。

使徒としての戦争──『最終兵器彼女』

 そして、これまでの説明と『無限のリヴァイアス』との対比から、『最終兵器彼女』の戦争が、『エヴァ』の使徒と同様の手法で描写されているのが理解していただけると思 う。

『最終兵器彼女』の「戦争」は、どんな原因によって、なんのために襲いかかってくるのかの一切の情報を欠いて、シュウジの日常に突然侵入してくる。そしてまた、シュウジの

暮らす北海道は、碇シンジの暮らす第3新東京市のように、たとえ何度か戦争にまきこまれても、次の日はまた変わらぬ日常がやってくる。

 そしてもう一点、設定の欠如もまた『エヴァ』後半に連なるものだろう。戦争という大状況を設定しながら、その戦況や原因といった世界設定を一切排除し、終始不透明なま

ま、主人公とヒロインの関係のみに焦点を合わせた『最終兵器彼女』の作劇方法は、まさに『エヴァ』が巨大ロボット・エヴァと使徒の戦いを描いた作品として始まりながら、終 盤、それらの謎解きを放棄し、主人公の自意識のみに焦点を当てる流れを再構築したものと言える。

 また、『エヴァ』、『最終兵器彼女』と同様、戦場と教室が直結する作品として、他に幻獣と呼ばれる怪物との戦いを描いたゲーム『高機動幻想ガンパレード・マーチ』があ

る。このゲームでは、プレイヤーは、学兵と呼ばれる学徒出陣兵となり、普段は、基地となる学校で授業を受けたり、自分が乗るロボットの整備をしたり、あるいはクラスメート

とデートしたりする。そして、敵の襲撃があると、ロボットで出撃、戦闘が終わると、また教室に戻り──という流れで学校という日常と戦争という非日常を往復する。これらは小

とデートしたりする。そして、敵の襲撃があると、ロボットで出撃、戦闘が終わると、また教室に戻り──という流れで学校という日常と戦争という非日常を往復する。これらは小

説において神野オキナ『シックス・ボルト』、須賀しのぶ『アンゲルゼ』などのフォロワーを生み、一ジャンルとして定着した感がある。

 あるいは『エヴァ』以降、セカイ系と呼ばれる作品の多くは、萌え=学園=日常空間と、各ジャンル(たとえばロボットアニメ的戦争)をいかに結びつけるかという試行錯誤か ら生まれたと言えるのかもしれない。

『ほしのこえ』と『トップをねらえ!』の差異

 最終兵器となった少女を描きながら、その戦争の具体的な内実、あるいは最終兵器がいかなる技術によって成り立っているのか、などの説明を一切省き、ただ少年と少女の恋愛 劇を描いた点が『最終兵器彼女』の「エヴァっぽさ」だろう。

 次に、ほぼ同様の構図でセカイ系と名指されたアニメ『ほしのこえ』を、先行作品との比較から見ていきたいと思う。そこには、『エヴァ』前後におけるオタク文化の創作姿勢 の違いが明確に現れている。

 新海誠による短編アニメーション『ほしのこえ』は、ほぼ個人の手によって作られたことから新世紀のアニメのあり方を指し示す作品として大きな話題を呼んだ。物語はほとん

ど、ミカコとノボルというふたりの登場人物のみによって展開される。友達以上、恋人未満といった関係の中学生ふたりだが、卒業と同時にミカコは、トレーサーという巨大ロ

ボットに乗り、宇宙探査に赴くことになってしまう。ふたりはケータイのメールを通して連絡を取り合うが、やがてミカコの乗る船は、地球から数光年と離れていき、ミカコの 送ったメールがノボルのもとに届くまでには、数年単位の時が必要になってしまう、というアニメだ。

『最終兵器彼女』が、言ってみれば、最終兵器という題材を用いて描かれた難病ものだったように、『ほしのこえ』もまた、ロボット、宇宙探索といった大仰な道具だてを用いて 描かれる遠距離恋愛の物語である。

 ところで、本作はガイナックス制作のアニメ『トップをねらえ!』と「ずれていく時間」といったテーマなどでよく比較される。同作は、超光速航行を続ける宇宙戦艦の搭乗員

であるがゆえに、高速移動による時間の遅れ=ウラシマ効果によって地球に住む友人たちと生きる時間がどんどんずれていく少女を主人公にしたロボット・アニメだ。2002年

に行われた第2回日本オタク大賞というイベントでは審査員から「トップをねらえ!賞」なるいささか揶揄的な賞が『ほしのこえ』に贈られている。

 しかし実際、この2作を比較することで、『エヴァ』以前と以後のオタク文化における先行作品の参照の仕方や作品を構築する態度の違いを明らかにすることができる。

『トップをねらえ!』の先行作参照  両者とも、巨大ロボットというよくある「お約束」の上で成立している作品だが、その利用の仕方は正反対である。 『トップをねらえ!』に登場するメカニックやその描写は、ほとんど偏執狂的なまでに設定によって裏付けがなされている。

 たとえば主役ロボ・ガンバスターが攻撃をする時、パイロットが「バスタービーム!」「ダブルバスターコレダー!」など、必殺技の名前を叫ぶのは、同ロボットに音声認識装

置が搭載されているからであり、また宇宙空間にもかかわらず衝撃波が伝播するのは、作中世界の宇宙がエーテルという物体で満たされているから。登場する宇宙戦艦が「るくし

おん」「ヱクセリヲン」など、日本語で表記されているのも、日米戦争に勝利した日本が母体となって地球統一国家である地球帝国を設立した、という設定を持つからであり…… いちいち書いていけば切りがないが、同作は、きわめて多くの設定によって支えられた作品群である。

 そしてまた、前章で触れた「ガメラの火」をはじめ、『伝説巨神イデオン』、『ジャイアントロボ』といったアニメ、特撮から『沖縄決戦』などの実写映画まで、同作はきわめ

て多くのパロディ=岡田の言う「暗号」を内包し、SF、特撮、ロボットアニメといったジャンルコードの博覧会的な作品となっている。

『ほしのこえ』の先行作参照

 一方の『ほしのこえ』は設定や引用へのこだわりが薄い。たしかに、ミカコが登場するロボットのコックピットなどには『エヴァ』の影響が、あるいは登場する宇宙戦艦は

 一方の『ほしのこえ』は設定や引用へのこだわりが薄い。たしかに、ミカコが登場するロボットのコックピットなどには『エヴァ』の影響が、あるいは登場する宇宙戦艦は

『トップ』の影響(『トップ』の宇宙戦艦自体『スター・ウォーズ』の引用と思われる)が感じられるが、そこには「あの作品をパロディにしてみました」というような引用意識

は希薄である。ロボットの操縦席ってこんな感じでしょう? 宇宙戦艦ってこんな感じでしょう? と、目に付いたものをそのまま持ってきたような手つきが感じられる。また、

『トップをねらえ!』のパラノイアックなまでの設定へのこだわりに対し、『ほしのこえ』に登場するロボットやケータイには、その後ろに何か膨大な設定が隠されている様子が あまり感じられない。

 そもそも『トップをねらえ!』と『ほしのこえ』が比較される最たる要因、同じ年に生まれながら、生きる時間がズレてしまった登場人物の心が重なり合う、というシーンも、 その依拠する方法論はまったく別である。

『トップ』最終話における元・同級生だったふたり、少女のまま戦い続けるパイロット・ノリコの叫びが、その親友であり今は一児の母となった中年女性・キミコのもとに届く 代のままのミカコと

代の青年になったノボルの「ここにいるよ」という呟きが重ねられるシーンが存在する。しかし、このシーンは単なる演出に

シーンは、実際に同一の時間に起こっている。ノリコが少女のままなのは、ウラシマ効果によって彼女の生きる時間が、キミコの生きる時間より遅くなってしまったからだ。  一方『ほしのこえ』にも、

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を作品に込めるというよりも、ウェルメイドな物語を読者に提供しようとする職人的作家だ。

 一方で、『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』とともにセカイ系の代表作として挙げられる『イリヤの空、UFOの夏』の秋山瑞人は、少々毛色が違う。自身の実存的な問題意識

の類似性が指摘されたのも自然な流れだろう。

所』、『秒速5センチメートル』などで、一貫して男女の遠距離恋愛の物語を描いている。巨大ロボットアニメというジャンルで監督自身の自意識の問題を追求した『エヴァ』と

『最終兵器彼女』にせよ、『ほしのこえ』にせよ、そこで描かれているのは、作者自身の問題意識である。たとえば、新海誠は『ほしのこえ』以後も、『雲のむこう、約束の場

『イリヤの空、UFOの夏』──ウェルメイドなポスト・エヴァ作品

 その描写は、まぎれもなく見る者の心を打つものであり、筆者は、もう見るたびに涙腺が決壊した、と申し添えておく。

にはある。

 SF設定や、わかる人だけにはわかるパロディやらといった枝葉末節を排除し、ただただ純粋に少年と少女のドラマを描くことに注力したからこそ描ける、真摯なドラマがそこ

 そうして作り上げた世界の上で、『ほしのこえ』は離ればなれになった二人の、胸がしめつけられるような恋愛劇を展開する。

ワープするもの、であったり)を取り出して組み合わせて作られたのが『ほしのこえ』だと言える。

 オタクたちが持つ共通前提、お約束の束から、ミカコとノボルの物語を語るのに必要なだけの要素(たとえば、少年少女はロボットに乗って戦うもの、であったり、宇宙船は

けないのか」など疑問だらけでマトモに鑑賞することはできなくなると思われる。

のロボットアニメを一切見たことのない視聴者に、いきなり『ほしのこえ』を見せれば、「なぜ高校生が戦争に行かなければいけないのか」「なぜ人間型の兵器で戦わなければい

 しかし女子高生が突然、制服のまま宇宙に行ってロボットで戦う、というような荒唐無稽な物語をごく自然に鑑賞できるのは、やはり私たちが前提を共有しているからだ。日本

『ほしのこえ』には、「ここは『イデオン』からのパロディ」「このセリフは『沖縄決戦』からの引用」などと指摘しながら鑑賞するような視聴態度は必要ない。

だが、一方、『ほしのこえ』にはそれらが不要かと言われれば、やはり留保が必要だろう。

『トップをねらえ!』は、引用やパロディに気づくだけの知識なり、あるいは作中の設定などを探すだけのリファレンス能力=オタクとしての教養が必要とされるアニメである。

遠距離恋愛」という主題のためだけに、ありとあらゆる要素が配置され、それ以外は潔く排除されているのである。

『トップをねらえ!』がまるで、それ自体が自己目的化したように、膨大な設定や引用、科学考証を積み重ねた上で、物語を展開しているのに対し、『ほしのこえ』は「ふたりの

よってのみ成立しており、実際には別々の時間に起こった出来事が同時に再生されている(誤解されがちだが、本作にはウラシマ効果は発生していない)。

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くろがね

『イリヤ』以前の作品、『E.G.コンバット』、『 鉄 コミュニケイション』の文体は

 と述べている。

なな ちょう

せる必要が無いわけです。















年代に流行したSFのサブジャンル「サイバーパンク」の影響が感じられ、また人類滅

  そういう設定は出さないほうがいい。読者がよくわかんないので不気味に思う、それでいろいろ想像してもらうのがいいんですよ。だから、世界情勢の設定はおおっぴらに見

んです。戦闘シーンがないのもそのせい。戦闘シーンは、「真相はこうなんだよ」っていう場面ですから、絶対書かないと最初から決めていました。

  本来なら、書き始める前に世界情勢の設定もするんでしょうが、この話の場合、あくまで主人公の一少年が見聞きできないことは基本的に出てこない、書かないと決めていた

きいだろう。実際、筆者は、学生時代、『Kluster』Vol.03という同人誌で氏にインタビューを行ったことがあるが、そのなかで、彼は、世界設定の欠如について、

ブックガイド『SFが読みたい! 2004』掲載の「ベストSF2003国内篇」で8位を獲得するなど、広範囲に受け入れられているのは、このような資質に拠るところが大

号」である。高橋しんや新海誠と異なり、秋山は意識的にそれを作品から排除し、あえて高橋しんや新海誠のような作品を書いている、と言える。『イリヤ』が早川書房のSF

 といったセリフは、現実の軍事航空知識に基づいたものであり、ある程度、知識のある人間であれば、ここから大まかな情報を読み取ることができる。岡田斗司夫の言う「暗

に、高Gマヌーバ補正用のサイドスラスターらしきものまでついている。

ているのも人間。全身ギンギラ豪華趣味なとこなんていかにもファントムかスカンクの臭いがしますね。無接合のワンピース複合素材に、BOSセンサー冷却用のインレット

  父上は先ほどノースロップ・グラマンの無人戦闘 機に似ているとおっしゃいましたが、自分も同感です。たぶんこいつ無人機です。所属は米空。つまり、設計したのも運用し



な軍事知識を持っていることを示すシーンが頻出する。たとえば、第2巻でイリヤの乗る戦闘機の正体を、登場人物のひとりが推測するシーン。

 本作では、「北」と呼ばれる国と日本が戦争状態にあるが、『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』と同様、その内実は一切描かれない。しかし、作中の節々には、秋山瑞人が豊富

し、世界とイリヤの二択を迫られる。

トであり、世界の命運をかけた戦争に動員されていることが明らかになる。そのために、イリヤの身体はどんどん弱っていく運命にある。見かねた浅羽は、イリヤをつれて逃走

 物語は、浅羽直之という中学生の少年が、イリヤ(伊 里 野 加 奈 )という謎めいた少女と出会うところから始まる。物語が進むにつれ、やがてイリヤが軍の秘密兵器のパイロッ



セカイ系と呼ばせしめたのか、という本質にも迫ることができるだろう。

 しかし、それならば、意図的に「エヴァっぽく」作られ、後にセカイ系の代表作と呼ばれた本作の「意図」を分析することで、何が、ぷるにえをはじめとする人々にある作品を

う。

は、本作を「UFO綾波」と身も蓋もなく呼んでいる。『新世紀エヴァンゲリオン』でもっとも人気の高いキャラクターである綾波レイがUFOに乗って戦う小説、の意味であろ

や『ほしのこえ』が作家性と時代が呼応して、結果として「エヴァっぽく」なってしまったのに対し、『イリヤ』の場合、最初からそれを目指して作られた感がある。実際、秋山

 秋山は現在、『龍 盤 七 朝  DRAGONBUSTER』という架空の中国風世界を舞台にした、『イリヤ』とはかなり趣きの異なる物語を描いている。逆に言えば、『最終兵器彼女』

りゅう ばん

し、秋山という作家の立ち位置は大変珍しい。

 高橋しんや新海誠といった作家たちが、旧来のジャンルからは少々批判的に取り上げられながら、むしろ若い受け手を中心に熱狂的な支持を集める、という構図を持つのに対

亡後、生き残った猫たちによる宇宙開発物語『猫の地球儀』は、ライトノベル読者のみならずSFなど既存のジャンルの読者からも高い評価を受けた。

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 世界設定をあえて明らかにしないことで、一少年に同一化させ、個人的な物語を展開する、というのが『イリヤ』の手法であり、そのような個人的な物語こそが求められていた と、秋山は感じ取ったのだと思われる。

『イリヤ』のメタ構造  そのような秋山の視線は、物語の構造に端的に表れている。

 この作品では、イリヤは浅羽を守るために出撃し、自分の命と引き替えに世界を救う。典型的な「きみとぼくの恋愛が世界の運命に直結する」物語である。しかし実は、それ自

体が軍人たちによって仕組まれていた計画であることも、ラストでは明らかにされる。戦うためのモチベーションを失った少女に、守るべき少年を与えること、それこそが大人た

ちの目的であり、その意味では、「きみとぼくの恋愛が世界の運命に直結する」構図を、社会(軍隊とは、まさに官僚組織の典型だ)が作り上げた世界ということになる。『イリ

ヤ』が完結したのは、『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』発表後のことであり、ここから前2作への批判的視点を読み取ることも可能だろう。「きみとぼくの恋愛が世界の運命を 決めるなど、ありえない」、「もしも、あるのだとすれば、社会が、そのようにデザインしただけにすぎない」という。

 少年は少女を守るためならば世界が滅んでもかまわないと決断し、そんな決断をした少年を守るためにこそ、少女は世界を救い死んでいく。『イリヤ』で描かれるのは、そんな

オーソドックスだが、それゆえに感動的な物語だ。のちに多くの論者が本作をセカイ系の代表作として挙げたのは、この明確な構造ゆえだろう。

 しかし一歩、後ろに下がれば、その物語は、あらかじめ軍部によって仕組まれたものに過ぎず、少年も少女も、世界を守るため、単に道具のように配置され、使い捨てられたに

過ぎないという事実も浮かびあがってくる。表層的には、少年と少女の悲恋を描いた「泣ける物語」でありながら、そんな物語への批判的な視点を有した、複雑な作品だと言え る。

 ゼロ年代中盤以降、セカイ系という言葉が流行した結果、意図的にセカイ系的な構造を作中に導入し、それに批判的検討を加える作品が現れてくる。この点で、『イリヤ』は、

そうした作品の先駆といえる。にもかかわらず、そんな作品が『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』とともに、セカイ系の典型とされてしまうところに、セカイ系という言葉が持つ やっかいさがある。

『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』、『イリヤ』が排除したもの

日)。

『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』、『イリヤの空、UFOの夏』。これまで見てきた、この3作品が、現在ではセカイ系の代表作と呼ばれている。しかし、これらの作品は物語 に注目しても、大きな差異を抱えている。

 ゲーム・シナリオライター夏葉薫は自身のウェブサイトで、以下のようにまとめている(「帰ってきたへんじゃぱSS」2007年6月

 にもかかわらず、この3作がセカイ系の代表作であるとする議論は、比較的広範に受け入れられている。そしてまたこれらの作品が何かを排除しているという認識でも共通して

  男子完全傍観、絶滅戦争、社会中抜き。セカイ系の三大特徴は、この典型と誰もが認める三作品においても勢揃いはしていない。

  でもって『イリヤ』には、子供を導こうとして失敗したり子供にむかついてなぐったり色々する社会人のオトナさんが大挙して出演されておられます。

惑しているだけの話。

  生活圏の外、と言えば『ほしのこえ』でミカコが戦ってるタルシアンは地球には全然攻めてこない。ピンチは人類的なアレではまるでなく、まあ、物好きな宇宙開発の人が迷

  せめて彼女が戦争する「どっか」が彼の生活圏の外だったりして欲しいが、これは『最終兵器彼女』においてはそうではない。

  所謂三大セカイ系、『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』『ほしのこえ』には、彼と彼女が出てきて彼女がどっかで戦争、以外に、あんまり共通点はない。

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 にもかかわらず、この3作がセカイ系の代表作であるとする議論は、比較的広範に受け入れられている。そしてまたこれらの作品が何かを排除しているという認識でも共通して いるようだ。では、この3作品は、本当は何を排除していたのか?

 すでに、ご理解いただけているかもしれないが、それは社会や中間領域ではない。これらの作品で排除されたのは「世界設定」なのである。

 作品のなかに挿入される「宇宙世紀0079」や「星団歴2998」といった架空の歴史、あるいは「モビルスーツ」や「モーターヘッド」、「ミノフスキー粒子」や「イレイ

ザーエンジン」といったSF設定をもとに、物語の背景に存在する世界観へとアクセスするという読み方そのものが、ここでは排除されている。『最終兵器彼女』の世界では、ち

せは何と戦い、その兵器はどのような原理で稼働しているのかはまったくわからない。『ほしのこえ』も同様だし、『イリヤ』もまた、秋山自身が語るように、意図的に削除され

ている。そして読者はそのような設定などまったく気にせず、青少年の自意識に、あるいは少年と少女の恋愛、悲恋にベタに感情移入する。

『新世紀エヴァンゲリオン』は「人類補完計画」、「汎用人型決戦兵器」、「使徒」といった謎めいた単語を頻出させ、散々、視聴者の興味を引いておきながら、路線変更により

それらの解説を一切放棄し、碇シンジというひとりの登場人物の自意識をクローズアップした。そして後発の3作品では、それらが最初から存在しないのだ。

物語消費とは何か?

『エヴァ』の前半から後半への路線変更は、オタクたちに作品受容の態度の変更を迫ったと前章で筆者は述べた。それが、岡田斗司夫の言う「オタクな」視聴態度でもあるが、も

うひとつ『エヴァ』以前の作品受容の態度の典型として、大塚英志が「物語消費論ノート」(『定本 物語消費論』所収)で提示した、物語消費という概念を紹介しておこう。

  コミックにしろ玩具にしろ、それ自体が消費されるのではなく、これらの商品をその部品として持つ〈大きな物語〉あるいは秩序が商品の背後に存在することで、個別の商品

は初めて価値を持ち初めて消費されるのである。そしてこのような消費活動を反復することによって自分たちは〈大きな物語〉の全体像に近づけるのだ、と消費者に信じこませ

ることで、同種の無数の商品(「ビックリマン」のシールなら七百七十二枚)がセールス可能になる。「機動戦士ガンダム」「聖闘士星矢」「シルバニアンファミリー」「お

ニャン子クラブ」といった商品はすべて、このメカニズムに従って、背後に〈大きな物語〉もしくは秩序をあらかじめ仕掛けておき、これを消費者に察知させることで具体的な

〈モノ〉を売ることに結びつけている。(中略)この一話ないしは一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の

視聴者はこの〈表向きの物語〉のみを見ている。ところがアニメの作り手は、こうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている

時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、そのデザインなり機能なりをこの時代の科学力

にてらしあわせた場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では直接的には描かれない細かな〈設定〉が無数に用意されているのが常なのだ。(中略)消費されているの ・







は、一つ一つの〈ドラマ〉や〈モノ〉ではなく、その背後に隠されていたはずのシステムそのものなのである。しかしシステム(=大きな物語)そのものを売るわけにはいかな

いので、その一つの断面である一話分のドラマや一つの断片としての〈モノ〉を見せかけ に消費してもらう。このような事態をぼくは「物語消費」と名付けたい。

 たとえば『機動戦士ガンダム』を例にとってみよう。大塚の議論に従うならば、オタクたちは『ガンダム』の物語を見ていない。少なくとも、アムロやシャアの物語が見たくて

『ガンダム』を見ていたのではなく、ガンダムの舞台である宇宙世紀という世界観にアクセスする(岡田の言葉を借りるなら「暗号を解く」)ためにこそ、アニメを見ていたので ある。

 その意味においてアニメ本編も、アニメ誌や関連書籍に書かれた公式情報も、「宇宙世紀」という世界観を理解する道具としては等価であり、アニメ本編=物語には特権的な価 値が置かれていない。

 ただし、『機動戦士ガンダム』放送開始当時の1979年を舞台にした誼阿古の青春小説『クレイジーカンガルーの夏』などでは、リアルタイムに同作を視聴した世代が、むし

ろ率直にアムロの成長の物語、内気な少年がガンダムという大きな力を手に入れるなかで成長し、最終的にはガンダムを捨て、一人の大人になっていく、というストーリーに引き

つけられていた様が描写されている。大塚が指摘する物語消費が全面化するのは、MSVと呼ばれる『機動戦士ガンダム』本編には登場しなかった兵器という設定のもとに発売さ

つけられていた様が描写されている。大塚が指摘する物語消費が全面化するのは、MSVと呼ばれる『機動戦士ガンダム』本編には登場しなかった兵器という設定のもとに発売さ 年代から

年代前半において全盛を誇っていた。たとえば1986年から『ニュータイプ』誌に掲載されている永野護『ファイ

れたプラモデル・シリーズの展開など、テレビ放送終了後のことかと思われる。  いずれにせよ、大塚英志の言う「物語消費」は

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文化に典型的なガジェットのなかで生きる少年の自意識を描いた点である。あるいは『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』、『イリヤの空、UFOの夏』でも同様に

代の少年の自

 そして『エヴァ』『雫』『ブギーポップ』の影響のもとに成立した作品が、ゼロ年代に入ってぷるにえによりセカイ系と名指されることになるが、『最終兵器彼女』や『イリ

もかかわらず『雫』は大きな話題を呼び、『ブギーポップ』に至っては、ファンタジーが主流だったライトノベルの光景を塗り替える、まったく新しい作品として受容された。

教オモイデ教』からの多大な影響があるし、『ブギーポップは笑わない』は眉村卓『ねらわれた学園』など、古き良きSFジュブナイルを彷彿とさせる道具立てになっている。に

 この疑問は正しい。実のところ『雫』も『ブギーポップは笑わない』も、古典的と言っていい作品である。たとえば『雫』は1992年に刊行された大槻ケンヂの小説『新興宗

者の自意識に焦点を当てるのはごくごく当然のことではないか、と。

意識が主題のひとつとなっている。しかし、多くの読者は、この説明に疑問を抱くのではないだろうか? 若者向けのコンテンツであるアニメやゲーム、ライトノベルなどが、若

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『新世紀エヴァンゲリオン』、『雫』、『ブギーポップは笑わない』。第1章で論じたこれら作品は、セカイ系の始祖と言える。共通しているのは、みな少年、とりわけ、オタク

なぜ自意識はセカイ系として名指されたのか?

群を欠いていたことで、何かが欠落している、と捉えられたのである。

 だからこそ『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』、『イリヤ』は、最終兵器、ロボット、UFO戦闘機といったガジェットを持ちつつも、本来であれば、当然存在するはずの設定

いている。

 そしてまた『エヴァ』の後に、セカイ系と名指された作品の多くが、みな一様に、『機動戦士ガンダム』的な、物語消費的な、背後に大きな世界観を匂わせようとする戦略を欠

その背後の世界観を理解することなど放棄した上で、碇シンジの物語として(ある意味でごく普通に)作品を視聴する必要がある。

ずに終わる同作は失敗作以外の何ものでもない。逆に『新世紀エヴァンゲリオン』を評価しようと思うのなら、人類補完計画とかS2機関なんて用語はどうでもいいと割り切り、

 このようにして『エヴァ』は、視聴者の物語を受容する態度そのものの変更を迫ったのである。物語消費という観点から見るならば、世界観の謎が、ほとんど何ひとつ明かされ

のである。批難の嵐が巻き起こるのも当然だろう。

 推理小説に例えれば、いきなり探偵が謎解きを放棄して被害者のメンタルケアを始め、密室の謎は解けてないけど、被害者が元気になったからいいよね? と言い出すようなも

主役になってしまうのである。

シンジの内面のみが描かれ、人類補完計画や使徒の正体など、一切、明かされないまま終わる。システムにアクセスするための断片のひとつでしかなかったはずの物語が、不意に

生き死になどどうでもよかったのである。ところが終盤、『エヴァ』の物語は、突如として登場人物の心理面へと焦点を狭めていく。特にテレビ版最終2話や劇場版にあっては碇

ヴァ』の世界を提示するための素材のひとつにすぎない。物語消費という視聴態度にあっては、人類補完計画をはじめとする謎、世界設定の全貌さえ明らかになれば、碇シンジの

が、序盤から何の説明もなしに嵐のように提示された。そこでオタクたちは、『エヴァ』の謎、そして世界観にこそ、惹きつけられていた。極論すれば、アニメ本編は、『エ

 前半の『エヴァ』は、この「物語消費」という観点から見た時、きわめて優秀な作品だった。「人類補完計画」、「セカンドインパクト」、「S2機関」といった謎めいた単語

 大塚の論は『エヴァ』の路線変更への大きな反発の理由もまた説明している。

『エヴァ』の物語消費からの決別

わめて多くの関連書籍を持っている。同作は、そうした膨大な設定をあらかじめ頭に入れて、ようやく理解できる、読み解ける構造になっている。

ブスター物語』という大ヒットマンガは、巻末に年表を持ち、これから作中で起こるほとんどすべての展開がすべて事前に明かされてしまっている。そしてまた設定を解説したき

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 そして『エヴァ』『雫』『ブギーポップ』の影響のもとに成立した作品が、ゼロ年代に入ってぷるにえによりセカイ系と名指されることになるが、『最終兵器彼女』や『イリ ヤ』は、難病ものと言ってしまえるし、『ほしのこえ』も遠距離恋愛ものという、普遍的なモチーフの作品だ。

 だから、セカイ系という言葉にまつわる一連のムーブメントを理解するためには、「セカイ系は何が新しかったのか?」という問いではなく、むしろ、「なぜこれらの古い物 語、ごく普遍的なテーマが、なぜ新しいものとして名指されたのか?」という問いを立てることが必要だ。  そして、それはポスト・エヴァという時代、あるいは『エヴァ』以前の作品受容の態度を参照しないかぎり見えてこない。

 つまり、『エヴァ』以前、オタクたちの間では、物語から世界観を読み取る「物語消費」をはじめ、岡田斗司夫の言う暗号を読み解く態度など、作品受容の態度がきわめて奇形

化していた。そのため、『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』、『イリヤ』などの素朴な物語への回帰、あるいは普通に物語を楽しむ、普通に登場人物に感情移入するという作品受 容の態度が、かえって奇異なものとして捉えられたのである。

物語消費からデータベース消費への移行により、物語は復活する

 さて、すでに何度か触れたように、こうした近年のオタクの作品受容態度の変遷を論じたものとしては、東浩紀による『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』と いう著作がある。筆者のこれまでの作品分析も、東の議論に拠るところが多い。

 このなかで東浩紀は、大塚英志の『物語消費論』を検討しながら、オタクたちの文化が「物語消費」から「データベース消費」に移行したと分析している。

 筆者なりにかみ砕けば、『エヴァ』以前の作品=物語消費が、一個の作品の世界観をもとに、それらと整合性を保った上で一個の物語を作ろうとしていた(たとえば『機動戦士

ガンダム』と、その外伝『機動戦士ガンダム0080』)のに対し、データベース消費においては、すべての作品が瞬時に要素要素に解体され、別の作品として出力されてくる

(たとえば『エヴァ』のコックピットと『トップをねらえ!』の宇宙船から生まれる『ほしのこえ』)、といったものだろう。そして、そこではオリジナルと二次創作の区別がつ かないと東は論ずる。

 しかし、「物語消費」から「データベース消費」への移行という整理は、しばしば、『エヴァ』以前のオタクは物語にハマっていたが、データベース消費では、データベースか

ら自動生成されるキャラクターに萌えるようになり、物語が必要とされなくなった、と読解されることがある。しかし、それは明確な誤解である。 『動物化するポストモダン』のなかで東は、

  オタク系文化では、大きな物語の凋落と反比例するように、作品内のドラマへの関心が益々高まってきた。   (中略)   まさにこの矛盾にこそ、データベース消費を担う主体の性質がもっともはっきりと現れている。

 と、はっきり述べている。 「物語消費」から「データベース消費」への移行によって、物語への回帰が起こる。

 字面として紛らわしいのだが、大塚がこの議論で「物語」と読んでいるのは、いわゆる個々のストーリーではなく大きな物語、世界観と呼ぶべき膨大な設定群である。よって、

この変化は「世界観消費」から「データベース消費」へ、と言い換えた方が理解しやすいかもしれない。だからこそ「物語消費」から「データベース消費」への移行により、少年 の自意識を描いたドラマ、男女の恋愛を描いたドラマが求められるようになったのである。

萌えとセカイ系──データベース消費の表裏  萌えについても補足しておこう。

 萌えについても補足しておこう。

 もしかしたら「どいてどいて遅刻遅刻~」と走ってくる綾波レイに「萌える」という潮流と、膝を抱えてうずくまる碇シンジに感情移入する自意識の物語が『エヴァ』から同時 に発生したことに疑問を覚える読者がおられるかもしれない。

 しかし、萌えも、自意識も、作品をみずからの内面に引きつけて語るという点では、まったく同一である。「綾波萌え~!」も「シンジ君は僕なんですよっ!」も、作品ではな

く、作品を視聴する自分についての言説だ。たとえばそれは「ここの作画は、庵野秀明がみずから手がけ~」とか「オーナイン・システムっていうのは監督の出身地のスーパーの 名前から~」といった分析的(岡田の言うオタク的)な視点からはどちらも等しく離れている。

『エヴァ』がもたらしたのはこのような作品受容のベタ化であり、「萌え」と「セカイ系」は、まったく同根の作品受容態度なのだ。

『ファウスト』──新本格のなかのポスト・エヴァ

 これまで、オタク文化におけるポスト・エヴァの流れを、ゲーム、マンガ、アニメ、ライトノベルのなかで分析してきたが、そこから少し離れた、本格ミステリという分野で

も、新本格とオタク文化の交差点とも言うべき、新たな作家たちが生まれていた。そうした作家たちもまたセカイ系と名指された。 いびつ

 1987年の綾行人『十角館の殺人』に端を発する本格推理小説の復権は、新本格と呼ばれるムーブメントとなり法月綸太郎、有栖川有栖をはじめ、数多くの作家たちを生んだ せいりょういんりゅうすい

が、彼らの切磋琢磨は、ミステリという形式を歪 に暴走させ「奇形的」としか呼びようのない作品をも生んでいく。

 とりわけ衝撃的なのは 清涼院流水 だ。1996年のデビュー作『コズミック 世紀末探偵神話』は、密室卿なる人物が生む千もの密室に、探偵組織JDCに所属する350人の

探偵が挑むというもので、しかも、探偵それぞれに、トンチで推理する傾奇推理、女の勘で推理するファジイ推理など、まるで必殺技のごとき推理法が設定されている。率直に

言ってミステリ的には評価しがたい清涼院の小説を支持したのはトリックや謎解きではなく、超絶美形の名探偵・九十九十九など、キャラクターに惹かれる読者であった。

回受賞者となった佐藤友哉、2002年に『クビキリ

 メフィスト賞第2回の受賞者である清涼院のみならず、同賞受賞者は、第1回受賞者の森博嗣、デビューが賞設立のきっかけとなったことから第0回受賞者とされる京極夏彦な ど、作中に登場するキャラが人気を呼び、ライトノベル的に受容された作家が多い。 回受賞者となった舞城王太郎、『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』で第

 ゼロ年代初頭に入ると、そのメフィスト賞から相次いでデビューした3人の作家が、大きな話題を呼んだ。  2001年に『煙か土か食い物』で第

回受賞者となった西尾維新だ。

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の小説にはルンババ

なる名探偵が登場し、佐藤の第2作『エナメルを塗った魂の比重 鏡稜子ときせかえ密室』の登場人物の多くは本格ミステリ作家の名前から取られ、西尾の

 まず共通して言えるのは、3人の作家とも、探偵小説の決まり事──たとえば名探偵や密室といったコードを作中に導入し、時に過剰なほどに作中でアピールする。たとえば舞城

 3人とも、それぞれ個性的な作家であるが、個別に論じたものも多いため、ここでは共通点を見ていこう。

サイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で第

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極夏彦、森博嗣、清涼院流水というミステリ作家と並んで、ライトノベル作家である上遠野浩平に言及している。

尾維新の「戯言」シリーズのヒロイン玖渚友は、青髪という非現実的──ライトノベルチックな描写がなされている。また、本人自身、自分に影響を与えた作家として、笠井潔、京

は、大塚英志が携わっていたラジオ番組のなかで放送されたラジオドラマ『東京星に、いこう』を下敷きとしたものである(同作は、大塚のオビと共に刊行された)。あるいは西

 またサブカルチャーからの影響も大きい。とりわけ、佐藤友哉と西尾維新のふたりはライトノベルなどオタク文化からの影響が顕著である。佐藤のデビュー作『フリッカー式』

である。

あるいは佐藤友哉の第3作『水没ピアノ 鏡創士がひきもどす犯罪』は、作品の少なからぬ割合が、著者の実体験とおぼしきアルバイトの描写などに占められた、私小説風の作品

しば形容された)が高い評価を受け、西尾維新のデビュー作である「戯言」シリーズは、途中で本格ミステリから『少年ジャンプ』の人気作品のごときバトルものに方針転換し、

評価は必ずしも高くない。舞城王太郎の『煙か土か食い物』は、探偵小説をおちょくったようなトリックを用いた作品で、むしろ、そのテンポのいい文体(ドライヴ感などとしば

デビュー作も、ミステリへの自己言及的なセリフを数多く含む。しかし、名探偵、密室といったコードを露骨なまでに用いているにもかかわらず、3人の作品のミステリとしての

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極夏彦、森博嗣、清涼院流水というミステリ作家と並んで、ライトノベル作家である上遠野浩平に言及している。  そうした出自から、佐藤友哉と西尾維新、とりわけ後者は、ミステリ読者よりもライトノベル読者から大きく評価された。

セカイ系としての西尾維新  3人のなかで、とりわけセカイ系と名指されることが多かったのが西尾維新である。

 現在のセカイ系の「定義」からすると、西尾がそう名指されているのは奇妙に思えるかもしれない。「きみとぼくの恋愛が世界の運命に直結」「社会の中抜き」といった側面 が、あまり見られないからだ。  しかし西尾維新のデビュー作『クビキリサイクル』には次のような一文がある。

  それはきっと、その通りなのだろう。   世界は優秀に厳しい。世界は有能に厳しい。   世界は綺麗に厳しい。世界は機敏に厳しい。   世界は劣悪に優しい。世界は無能に優しい。   世界は汚濁に優しい。世界は愚鈍に優しい。

  けれどそれは、そうと理解してしまえば、そうと知ってしまえば、その時点で既に終わってしまっている、解決も解釈もない種類の問題だ。始まる前に終わっていて、終わる 頃には完成している、そんな種類の問題なのだろうと思う。

 ・一人語りの激しい  ・たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる

 西尾の作品は、ぷるにえの定義に綺麗に当てはまる(というよりも、西尾維新こそ、ぷるにえが念頭に置いていた作家、作品ではないか、と想像をめぐらせたくなる)。

 また、西尾維新のキャラクターは、しばしば自身を壊れていると表現する。「戯言」シリーズ主人公の「いーちゃん」をはじめ、その登場人物は、おおよそ倫理観というものが

欠落しており、「一人語りの激しい」みずからの主観的な判断において、しばしば犯罪行為を行ったり黙認したりする(同様の傾向は、佐藤友哉にも指摘される。彼のデビュー作 は、妹の復讐のため高校生を誘拐監禁する青年の物語である)。

才の犯人「酒鬼薔薇聖斗」や、2000年に起きた西鉄バスジャック事件の犯人「ネオ麦茶」的な自意識の持ち主として、セカイ系と名指されたのである。

 言ってみれば西尾や佐藤の作品は、才能ある者には殺人の権利があると断言する『罪と罰』のラスコーリニコフ的、あるいは1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件におけ る

 戦いに行く少女を見守ることしかできない少年がみずからの無力を嘆く自意識も、あるいはみずからの自己認識をもとに倫理観を超越しようとする自意識も、当初は等しくセカ

藤もない。或いはカブト虫を殺すことと人間を殺すことととの間に何の差異も感じない。

  優しさと残酷さを同居させる人間といえば文学の正統的主題ですが、ラノベは似て非なるもの。優しい自分と残酷な自分は解離(disassociation)していて互いに関係ないので葛

正統ですが、その「ここではないどこか」にはもはや人間がおらず、いても壊れています。

  ラノベ(ライトノベルズ)と呼ばれる小説の周囲に集う「セカイ系」は違います。彼らは確かに「ここではないどこか」を追求し、その意味で「異世界」に遊ぶオタク文化の

 若干、年代はずれるが、2006年2月の宮台真司の論文「限界の近代・限界の思考~境界の正当性を巡って~」は、西尾作品がセカイ系と名指されるロジックの典型だ。

14

 戦いに行く少女を見守ることしかできない少年がみずからの無力を嘆く自意識も、あるいはみずからの自己認識をもとに倫理観を超越しようとする自意識も、当初は等しくセカ イ系と名指され、エヴァっぽい、一人語りが激しいと評されていた点について、ここでは強く注意を喚起しておきたい。

 その上で、本書の文脈に彼らを位置づけるなら、彼らの小説は、庵野秀明や新海誠がロボットアニメでやろうとしたことを、本格ミステリで行った作家たちだと言える。つま

り、『エヴァ』のロボットものというジャンルコードの代わりに、本格ミステリというジャンルコードを用いて語られた、自意識の物語である。  その意味で、彼らもまた、ポスト・エヴァの時代の中で生まれ、受容されてきた作品として、位置づけることが可能であろう。

  注:宇野常寛『ゼロ年代の想像力』では、前者の『ほしのこえ』的な自意識がセカイ系と名指され、西尾維新的な自意識が決断主義と名づけられたが、当初のセカイ系は両者を含むものだった。『エヴァ』がもたらし

た最大のパラダイム・シフトはオタク文化における自意識の獲得であり、ゆえにゼロ年代初頭では、ある意味正反対のふたつの自意識が「自意識である」という点において名指された。そして、ゼロ年代後半におい

て、そのようなパラダイム・シフトが完了し、自意識の存在がごく自然なものとして受け取られるようになったからこそ、その差異が議論されるようになった、というのが筆者の考えである。

『ファウスト』における虚数の青春

 2003年には、舞城、佐藤、西尾の3人を中心とした文芸誌『ファウスト』が創刊された。同誌には、彼らの他、当時、同人作品(自主流通作品)として販売されて空前の大

ヒットを記録し、美少女ゲームにおけるKey以降の新たなパラダイムを切り開いた『月姫』のシナリオライター・奈須きのこや、角川書店から青春小説『ネガティブハッピー・

チェーンソーエッヂ』でデビュー、自身の経験をもとに、引きこもり主人公をコミカルに描き出した『NHKにようこそ!』が後にアニメ化、コミック化されるヒット作となっ

た、滝本竜彦も合流した。批評家の東浩紀なども登場し、純文学と本格ミステリ、ライトノベルや美少女ゲームをはじめとしたオタク文化、そして批評の融合として大きな注目を

浴びた。詳しくは次章で解説するが、同誌の創刊は、ライトノベル・ブームの引き金のひとつともなり、セカイ系という語がネットから活字に越境する遠因のひとつともなった。

 その『ファウスト』の編集長であり、西尾ら3人を発見した編集者・太田克史は、彼らの作風を「虚数の青春」と名づけている。

 太田が名指そうとしたものは、セカイ系という語が名指すものと重なる部分が多いと思えるので、『タンデム・ローターの方法論』(同人誌)から太田の評論「リタラチャー─N

年代。──世紀末、そして新世紀。

O.3」を引用してみたい。

  

でもなく、中間小説でもなく、ましてやSFでもホラーでも伝奇でもなく、「本格ミステリ」というきわめて特殊な小説の手法を自覚的に選択しなければならなかったというこ

  あなたたちの小説は、すくなくともぼくにとってはそんな虚数の時代の虚数の青春のひとつの象徴のように映る。だからあなたたちがそのキャリアの出発点において、純文学

  (中略)

だ。

  あのとき、綾氏らを糾弾した人々は己の不明を恥じるべきだろうとぼくは思う。『十角館の殺人』は実はもっとも「人間」をかけていた(予見できていた)小説であったの

でもそれ以前の世の中にはありえなかった奇怪な事件が跋扈している。

い、愚にもつかないお喋りをビットとして撒き散らしている。そしてそんなわれわれの構成している世界には「孤島」も「館」も「密室」も(当然)存在していないけど、それ

に日々ネット上でコードネームでお互いを呼び合いながら本来とは異なる別の人格を纏い(そこでは本名などなんの意味も持たない)、第三者にとってはほとんどどうでもい

  だから当時の大人たちが綾氏を「人間がかけていない」と糾弾したのも尤もなことだといまぼくはふりかえることができる。しかし現在われわれは、皆が皆あたりまえのよう

この世にありえない事件、そんなこの世にありえない青春の顚末が『十角館の殺人』のすべてだった。

ステリ談義に花を咲かせる若者たち。そして「本格ミステリ」の様式美に忠実に則って「孤島」の「館」で起こる「密室」殺人。──この世にありえない人物たちが繰り広げる、

  それはぼくにとって綾行人がかつて『十角館の殺人』で予言した世界の到来を意味していた。エラリィ、ポォ、ルルゥ……本名ではなく、コードネームでお互いを呼び合いミ

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年代以降の世紀末・新世紀をめぐる虚数の青春の悲惨さに拮抗しそれを描くためには、ほかのどんな小説の手法にもまして完璧な

でもなく、中間小説でもなく、ましてやSFでもホラーでも伝奇でもなく、「本格ミステリ」というきわめて特殊な小説の手法を自覚的に選択しなければならなかったというこ とは、ぼくにはとてもよくわかる気がする。

 太田の論に従うのならば『エヴァ』が1995年に発見した、虚構のなかで語られる自意識という主題を、本格探偵小説は

 ここまで見てきたとおり、ゼロ年代初頭とは、

年代後半の『十角館の殺人』時点で発見していたこ

年代後半の狂乱的とも言える『エヴァ』ブーム、『エヴァ』のもたらしたパラダイム・シフト後の混乱が収束し、『エヴァ』と

 さて、ようやく私たちは、セカイ系という言葉の誕生までやってきた。

セカイ系の誕生──ぷるにえブックマーク

れたことこそ、セカイ系という言葉の本質が「自意識」、とりわけ荒唐無稽なガジェットのなかで語られるそれにあったことの証左であるように思える。

 しかし、西尾維新らをはじめとする『ファウスト』系作家もまたセカイ系と名指された。だとすれば、本来異なる出自を持つはずの彼らが、『ほしのこえ』などとともに名指さ

太田の歴史観である。

とになる。そして、綾行人や法月綸太郎から浦賀和宏といった作家の間で連綿と受け継がれてきたこのテーマを、ゼロ年代に展開したのが『ファウスト』の作家たちだというのが

80

虚構性をあらかじめ保持し発揮できるジャンルである「本格ミステリ」を自覚的に選択することが必要だった、ということを。

90

 そのような作品を名指す言葉が、求められていたのも当然だろう。

いう作品を十分に咀嚼した上で、新たな作品が次々と送り出されていった時代と言うことができる。

90



日に、ぷるにえのウェブサイトに設置された掲示板に「セカイ系って結局何なのよ」というスレッドが作られた。

 そんななかで選ばれたのが、ぷるにえが発明したセカイ系であると言える。  2002年

31

 あるいはぷるにえは同年の



11

涼院流水がついに出たよねと。

日に、

テンパってる所がセカイ系。アイキャッチって実はエロくない? 3位は西尾維新、セカイ系ミステリ、という言葉があればその旗印に掲げられる作家。オタクが面白がれる清

コンビニの看板がセカイ系。昔飯野賢治が企画してた携帯ゲーム「宇宙っTEL」を思い出しました。2位『スパイラル 推理の絆』極度に思い込みの激しい人たちが不必要に

 ●セカイ系のことで何か書こうと思ったが思いつかん(ガンスリンガーなんとかって知らない)ので、第1回セカイ系大賞でも発表しようかなーと。1位『ほしのこえ』電線とか

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こまで広がるとは思っていなかったに違いない。

 と彼が述べているように、適当に思いついたキーワードをもとに、作品を分類していくという言葉遊びに近いものだったようだ。おそらくは、ぷるにえ自身も、この言葉が、こ

  「エヴァっぽい」って口に出すだけで、あーエヴァかよ、って思ってしまうから、その代替でセカイと言ってるだけなのかな、と。

  気分で言ってる言葉だから。

  いや、自分も分かんないんですけどね。

の小説『ひまわりスタンダード』などがセカイ系と名指されている。その意味するところを追うのは正直困難だが、

 同スレッドでは村上春樹がセカイ系、村上龍が非セカイ系と分類されたのをはじめ、アニメ『ラーゼフォン』や『おねがいティーチャー』、コミック誌『電撃大王』、柚原季之

 ぷるにえは、ここで「とりあえず、リピュア後半(引用者註:『シスター・プリンセスRePure』)はセカイ系かなあと。」と述べている。

10

涼院流水がついに出たよねと。

 とも述べている。

 その後、セカイ系は、主にネットで書評を掲載していたサイトなどを中心に、バズワード(明確な定義のないまま流通する専門用語風の単語)として流通していく。

セカイ系という言葉の的確さ  しかし、やはりセカイ系という言葉は流通するべくして流通したのだ、と思わざるを得ない。  単に「エヴァっぽい(=一人語りが激しい)」という限定からして、実は、非凡である。

庵野秀明の自意識に焦点を絞った作品でもある。

 というのも、すでに述べたように『新世紀エヴァンゲリオン』は、ふたつの側面を持っている。様々な謎やオタク向けフックをちりばめた作品である一方、それらを後半ですべ

て捨てさって、碇シンジ

 ゆえに膨大な引用や設定をまとった作品も、それらを一切排除し、ひたすらに青少年の自意識を描いた作品も、あるいは綾波レイ的な無口無表情系キャラクターの出てくるラブ コメ作品も、ともに等しく『エヴァ』的と呼ばれてしまう。

 そもそも『エヴァ』は、それまでのオタク的ジャンルコードの集大成的な作品であり、極論すれば、『エヴァ』後に作られた作品は、すべて『エヴァ』っぽいと形容することは

可能である。そんななかで、とりわけ『エヴァ』の文学じみた部分のみを名指そうとしたところに、セカイ系という語の優れた点がある。

 さらに、ぷるにえ自身が、「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称に

なった」と語るように、「世界っていう言葉がある」で始まる『ほしのこえ』などの作品を的確に名指し、またセカイとカタカナ表記することで「世界の中心でアイを叫んだけも

の」という『エヴァ』のTV版最終話を連想させ、さらにまた「それらの作中で世界と呼ばれているものは、世界でもなんでもないのだ」という批判的な視点まで内在している。

 そしてまた「揶揄」という、エヴァ批判のもっとも典型的な態度を内包していたせいで、『エヴァ』肯定者の古傷を刺激したこともこの言葉がバズワードになるのに一役かって

いると思われる。ポスト・エヴァ作品を名指すだけでなく「わずかな揶揄を込めつつ用いる」という記述により、第1章ですでに確認したような「『エヴァ』に自己を投影=一人

語りする側」と「それを揶揄する側」の対立構造をも同時に再燃させてしまったのだ。セカイ系が激しい議論にさらされているのは、それが『エヴァ』論争の形を変えた再現であ

るからに他ならないと言える。作品のみならず、作品をめぐる状況までも含め、セカイ系とはポスト・エヴァの問題系なのである。

 ところで2000年代前半、出版界隈では、なぜか「この現実」とは異なる「現実」を意味する造語が頻出した。東浩紀と大塚英志が作った雑誌『新現実』、早川書房の名物編

代の若い読者が自分を投影し、現

集者・塩澤快浩によるキャッチコピー「リアル・フィクション」、そして東浩紀が提唱した概念「メタリアル・フィクション」、佐藤心「現代ファンタジー」、笠井潔「ジャンル X」、二階堂黎人の言う「きみとぼく」など、若い読者の共感を呼ぶ小説群をめぐって、いくつかの用語が提唱されていた。

 おそらくこれらの単語が名指そうとしたのは、ロボットに最終兵器、宇宙人、未来人、超能力者など、荒唐無稽な道具立てを使った作品に、 かでもっとも優れた単語だったと言えるのではないだろうか。

実感を覚えてしまうという事態だと思える。その意味で、それは、ぷるにえが「一人語りが激しい」と述べた範囲とも重なっているのではないか。そして、セカイ系は、そんなな

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年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作

 その点を踏まえ、筆者なりに、これまでの流れを踏まえた上でセカイ系の定義をするのなら、

「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、

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「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、

年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作

 このような点で『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、ゼロ年代前半のオタク文化を象徴する作品、ポスト・エヴァの代表作と言っていいだろう。

うことが匂わされている。そのため『ハルヒ』には確定した世界観、世界設定というものが、ほとんど存在しないのだ。

それぞれまったく別の体系からハルヒの持つ能力を説明し、その整合性はほとんどない。しかも、それら個々の説明でさえ、ハルヒという少女の一存であっさりと改変されてしま

 そしてまた『最終兵器彼女』などのポスト・エヴァの作品群に顕著な「物語消費の排除」は、『ハルヒ』においても指摘できる。本作に登場する宇宙人、未来人、超能力者は、

宮ハルヒの憂鬱』において唐突に主人公が飛ばされる異世界・閉鎖空間は、どこかKey作品における幻想世界を連想させる)。

同作は、ごく普通の幼なじみの少女と、超能力者の下級生、メイドロボットといった様々な設定を持つ美少女たちが、ごく自然に共存する世界を舞台にしていたからだ(また『涼

 このような雑多な光景は、美少女ゲーム的な想像力の影響を感じさせる。ゼロ年代における萌えのパラダイムを切り開いた作品として、すでに『ToHeart』という作品を挙げた。

定、背景、世界観を背負ったキャラクターたちがひとつの部室で共存している。

 そして、同作では、実は宇宙人である彼女を筆頭に、未来人の美少女、超能力者の少年など、それこそそれぞれ異なる作品からひっぱり出されてきたような、まったく別の設

マットにも忠実な作品である。同シリーズでもっとも人気を集める長門有希というキャラクターは、明らかに『エヴァ』の綾波レイの系譜を受け継ぐ存在だ。

 しかし一方で本書は、ハルヒ自身が作中で「萌えよ、萌え!」と自己言及的に語るように、ポスト・エヴァのもうひとつの(そして主要な)パラダイムである、萌えのフォー

というごく一般的な思春期の悩みを主題とした物語である。

 どういうことか。まず『ハルヒ』はきわめてセカイ系的な作品である。同作品は、主人公キョンの過剰なまでに饒舌な一人称で語られ、また「ここではないどこかへ行きたい」

両者を統合した作品であり、今から振り返れば、同作がポスト・エヴァの時代における最大のヒット作となったのも決して偶然ではないように思えてくる。

 筆者は『エヴァ』のもたらしたパラダイム・シフトとして、ふたつの実存的な作品受容態度、つまり「萌え」と「セカイ系」があると述べた。そして『ハルヒ』は、まさにその

『ハルヒ』は、その後のアニメの驚異的なヒットにより、しばしば『新世紀エヴァンゲリオン』以降、最大のヒット作と呼ばれる。

「一人語りが激しい」「きみとぼくと世界の運命の直結」といったセカイ系の定義に完璧に一致する小説と言える。

委ねられる。

持っていることに気づいていく。やがて毎日に飽き飽きしたハルヒの深層心理は、世界すべてを作り変えてしまおうとする。世界の命運は、かくしてハルヒのそばにいるキョンに

める彼女は、宇宙人、未来人、超能力者といった超常的存在を求めてSOS団なる部活を結成する。だが、やがてキョンは、ハルヒが世界を自分の思うがままに改変していく力を

 第8回スニーカー大賞の大賞受賞作である本書は、平凡な高校生・キョンが、入学早々、涼宮ハルヒという美少女と出会うところから始まる。平凡な日常に退屈し、非日常を求

 2006年にアニメ化され、驚異的なヒット作となった谷川流の小説『涼宮ハルヒの憂鬱』が刊行されたのは2003年6月のことだ。

ポスト・エヴァのオタク文化を象徴する『涼宮ハルヒの憂鬱』

 ということになるだろう。

た。命名者はウェブサイト『ぷるにえブックマーク』の管理人、ぷるにえ」

中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群。その特徴のひとつとして作中登場人物の独白に『世界』という単語が頻出することから、このように命名され

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第3章 セカイはガラクタのなかに横たわる 2004─06年

セカイ系の定義の変化 「セカイ系とは何か?」を主題とする本書の目的は、前章で果たされたのだろうか?

 ところが事態はそう簡単ではない。2003年以降、セカイ系という語は文芸批評を中心に、活字の分野へと進出し、そのなかで「エヴァっぽい」あるいは「ポスト・エヴァン ゲリオン症候群」といった歴史的側面は抜け落ち、

  セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わ

り』(中略)など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり、代表作として新海誠のアニメ「ほしのこえ」、高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、秋 山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる。

(Wikipedia「セカイ系」)

 といった定義にとって代わられていく。すでに検討したとおり、この定義はセカイ系と名指された作品や要素を必ずしも内包するものとは言えない。しかし、こうして抽象化さ れたことで、この定義自体が、新たなセカイ系を作り出していく。  そのような2004年からの流れを本章で確認したい。

ライトノベル・ブームとセカイ系

  ぷるにえが使い始めたセカイ系という語は、ネット上で2003年の前期に流行した。その言及のされ方については、ウェブサイト「Paradise Lost」(管理人:TOY)に、逐一

記録したまとめがある。当時が、ちょうどhtmlを用いた日記サイトからブログへの移行期であったこともあり、現在、そのまとめに載っている多くのウェブサイトは閲覧不可能に なってしまっているが、それでも、雰囲気だけは読み取ることができるだろう。

 いずれにせよ、こうした議論のなかで、「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」から、「主人公とヒロインの恋愛によって世界の運命が決定してしまう作品」という定義 への移り変わりが起こったと見られる。

 しかし、流行のはやりすたりが激しいネット上のこと、セカイ系が大きな話題になったのは2003年前半がピーク、2003年末にはすでに過去のものとなった感がある。実 際、ネットを探すと2003年の時点で「それはもう1年以上前の流行です」といった書き込みを見つけることができる。

とう

回日本SF大賞を受賞したことなどもきっかけだろう(『ファウスト』自体はライトノベルではないが、か

年、出版業界の注目が、にわかにライトノベルに集まった。前章で触れた2003年の『ファウスト』創刊や、同じく2003年に刊行されたライトノベル出

 そのようなセカイ系が復活、あるいは延命したのは笠井潔や斎藤環、東浩紀といった評論家たちに活字媒体で取り上げられたこと、そしてさらに、その背景には、ライトノベ ル・ブームがある。 かた

 2003年から うぶ

身作家・冲 方 丁 によるSF『マルドゥック・スクランブル』が第

 たとえば、新城カズマは『ライトノベル「超」入門』のなかで次のように言う。

 ただし、ライトノベルが外からの注目を浴びただけで、ライトノベル自体に大きな変化があったわけではないことから、ライトノベル評論ブームなどとも言われている。

ベルがすごい!』などである。また『ダ・ヴィンチ』や『QuickJapan』などで相次いでライトノベル特集が組まれた。

 また、2004年には相次いでライトノベル関連の書籍が刊行された。『ライトノベル完全読本』、大森望、三村美衣による『ライトノベル☆めった斬り!』、『このライトノ

いるライトノベルのガイドブック『このライトノベルがすごい!2006』において、読者投票によるランキングで1位を獲得している)。

えってそのことでライトノベルと一般文芸の橋渡しとなった印象がある。また、その看板作家の一人である西尾維新の代表作「戯言」シリーズは、のちに宝島社が毎年、刊行して

24

04





  一般の人たち──「ネクタイびと」と僕は昔から呼んでいるわけですが、いわゆる非おたく人口──が初めてライトノベルという手 法 の存在に気づいたのが、二〇〇四年から二 〇〇五年にかけてだった。というだけの話だと言うことを、ここでは理解してほしいと思います。

 いずれにせよライトノベル・ブームによって文芸批評家がライトノベルに言及することが増えた。その結果、「文芸の最先端」としてにわかに認知されてしまったライトノベル

の「最先端の流行」として、セカイ系もまた取り上げられていく。そして、著名な評論家が、ネット上のジャーゴンに活字で言及したという驚きから、そのことがかえってネット 上で話題を呼び、という循環の中で、セカイ系は再び息を吹き返していった、という流れを指摘できるだろう。

セカイ系の活字への越境

 著名な評論家のなかで、もっとも早くセカイ系に言及したのは、おそらくミステリ作家として活躍するかたわら、本格ミステリを中心に精力的な評論活動を続けていた笠井潔だ

月に彼が所属していた探偵小説研究会が主催するウェブ上の書評連載企画「週刊書評」にお

ろう。笠井は2002年に刊行された『本格ミステリ・クロニクル300』に掲載された評論「本格ミステリに地殻変動は起きているか?」で西尾維新を論じるなかで、美少女 ゲーム『AIR』に触れ、若い読者の驚きを持って迎えられたが、さらに2003年

かん ばやし

 と独自の定義づけを行い、セカイ系の先駆者のひとりとして神林長平を挙げている。

  セカイ系というジャンルは、右で述べたような、世界をコントロール可能なものとして捉えるようになった時代をその成立の背景としている。

 (中略)

  人生経験の少ない若い人による自己充足的で未成熟な、社会を捉えることのできない物語、といったところだ。しかし筆者には、この揶揄は的外れのように思える。

 と取り上げられる。元長は笠井の記述を引きつつ、

揄の意味で使っていると言っているのではない。念のため)。

(笠井潔)という説明が妥当だろうが、世界を片仮名でセカイと称していることからも想像できるように、この言葉には多分に揶揄のニュアンスが含まれている(笠井潔氏が揶

  セカイ系という言葉がある。「近年のアニメやコミックやゲームに見られる、社会領域を欠いて自閉した印象の、キミとボクの恋愛ドラマは『セカイ系』と称されている」

 

た解説のなかで、

 この笠井による一文は、2004年2月にハヤカワ文庫JAから刊行された神 林 長平のSF小説『天国にそっくりな星』に小説家、ゲーム・シナリオライターの元長柾木が寄せ

 という形でセカイ系に触れている。

  近年のアニメやコミックやゲームに見られる、社会領域を欠いて自閉した印象の、キミとボクの恋愛ドラマは「セカイ系」と称されている。

いて、『イリヤの空、UFOの夏』を論じた「戦闘美少女とilya」を発表。このなかで、

10

 おそらくこの元長の例が、活字にセカイ系が登場したもっとも初期のものと思われる。

」って感じですよ。

月ぐらいからセカイ系って言葉がけっこう来てますね。

 また三才ブックスの雑誌『ゲームラボ』2004年3月号に掲載された、同誌のコラムニスト、東浩紀、斎藤環、佐藤心、マンガ家の砂による座談会「オタクの教養2004」 においても、次のようなやりとりがある。

 斎藤(環:引用者註)(中略)2002年の  東(浩紀:引用者註) 来てますね。カタカナで「キター

 ここで興味深いのは、佐々木は、

の二大人気ジャンルを組み合わせて思い切り純度を上げたようなものである。

  敢てミもフタもなく言ってしまえば、「セカイ系」とは「学園ラブコメ」と「巨大ロボットSF」の安易(であるがゆえに強力)な合体であって、つまり「アニメ=ゲーム」

ムの臨界点』のセカイ系の注釈を引用しながら、その典型例として『最終兵器彼女』を挙げ、次のように論じる。

『ぼく』の壊れた『世界/セカイ』は『密室』でできている? 西尾維新VS舞城王太郎」のなかで、東浩紀が2004年夏のコミックマーケットで発行した同人誌『美少女ゲー

 といった形でセカイ系に言及しているのを筆頭に、ミステリ評論家の鷹城宏も「セカイ」という語を用いて西尾作品を論じている。そして、評論家・佐々木敦は「『きみ』と

  舞城作品を妥当に評価するには、たとえば「セカイ系」にかんする最低限の予備知識が要求される。

は見当違いな選評が並んでも仕方がない。

いる。しかし選考委員の誰一人も、「セカイ系」というコトバさえ知らなかったようなのだ。評価能力をもたない人間が、当該作品の評価をしなければならないわけで、これで

  舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』が芥川賞に落選した。当然の結果だろう。この作品には、ジャンルX的な「セカイ系」の主題を異化するモチーフが込められて

 たとえば「「近代文学の終わり」とライトノベル」で笠井潔が、

カイ系という語を用いている。

 2004年に刊行された『ユリイカ2004年9月臨時増刊号 総特集:西尾維新』では、ベストセラー作家となった西尾維新やその周辺の作家を論じるため、多くの論者がセ

セカイ系定義の確立

なっている点が確認できる。

 いずれにせよ、2004年前半の時点で、セカイ系は、すでにぷるにえの定義を離れ、エヴァっぽさ=自意識ではなく、構造によって規定され、またその典型も『イリヤ』と

いる。しかし、ここで東は、セカイ系は新たなタイプの「戦争礼賛小説」ではないかと危惧し、やや否定的な見解を示していることも付記しておきたい。

 ここで東は斎藤の質問に答える形で、セカイ系の例として『イリヤの空、UFOの夏』、『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』を挙げ、『イリヤ』がもっとも典型的な例だとして

 斎藤 おおまかな概念は把握したつもりなんだけど。よくわからない。

!!

10

  西尾維新と舞城王太郎の「世界」は、とりあえず「セカイ系」へと逃げ込まないための二種類の処方箋だ。だが、彼らは同じことを言っている。「君と世界の戦いにおいて」 もしも負けたくないのなら、ともかくも、   考えろ。

 とし、セカイ系と西尾維新と対置させている点だ。  そして、この佐々木論文は、3つの点で2004年以降のセカイ系をめぐる言説の典型を示している。  ひとつに、ぷるにえの定義ではなく『美少女ゲームの臨界点』を引いていること。同記事は、

  主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象

的な大問題に直結する作品群のこと。代表例は『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』(高橋しん、小学館)、『イリヤの空、UFOの夏』(秋山瑞人、電撃文庫)。

 というものだが、現在ではWikipediaにも引用されるなど、もっとも典型的なものとなっている。

 また、ぷるにえの定義ではともにセカイ系と呼ばれていた『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』的な自意識と、西尾維新的な自意識を対置させている点。これは後の 宇野常寛などに継承されていく。

 そして、最後に、セカイ系を論じつつも『新世紀エヴァンゲリオン』という固有名詞が一切登場しない点。これはむしろ『エヴァ』という作品が忘れ去られたというよりも「巨 大ロボットSF」という言葉で自然と『エヴァ』が想起されるぐらいに定着したゆえと考えられるだろう。

  注:なおここで素知らぬ顔で記述をしているが、筆者自身、東浩紀発行のメールマガジン『波状言論』、及び同人誌『美少女ゲームの臨界点』の編集に参加している。この注釈自体を執筆したわけではないとはいえ、 セカイ系の定義の変遷と混乱を生んだ元凶のひとりであることは間違いない。

セカイ系の抽象化、非歴史化の理由

 そうして現在、セカイ系は、完全に物語の構造によって定義されるようになり、しばしば「エヴァっぽい」、つまり第2章で概観した『エヴァ』によるパラダイム・シフトとい う視点が欠けるようになってしまっている。

 たとえばライトノベルのアカデミズムからの研究書としては、おそらく最初の一冊となるだろう『ライトノベル研究序説』におけるセカイ系の項目も、笠井の評論は引いている

が『エヴァ』や提唱者のぷるにえについては言及していない。セカイ系がしばしば「昔からあった」と指摘され、「実体のないバズワードである」とまで言われてしまうのは、こ の定義に拠るところが大きいだろう。

 笠井にせよ、『美少女ゲームの臨界点』にせよ、提唱者であるぷるにえの定義を引用することなく、独自にパラフレーズしたものを用い、また、積極的にその意味内容の更新を 行おうとしている。そのことが、混乱の一因と言える。

 その理由に、ぷるにえによる定義(「エヴァっぽい」)がネットに特有のあまりに口語的なものであり、論文や活字に馴染まなかったことが挙げられるだろう。また彼が揶揄を

込めて使っていたのに対し、この言葉を取り上げた論者の幾人かは、この言葉や対象の作品を肯定的に捉えていた。そのため、意味合いの「脱臭」と「更新」が必要だったのだろ

う。筆者も、ライターデビュー間もない頃、『SFマガジン』2005年7月号にて『イリヤの空、UFOの夏』についてのレビューを執筆した際、かなり意図的に、肯定的意味 合いを込めて使用した覚えがある。

 その意味では「セカイ系」は「おたく」という言葉にも通じるものがある。

 蔑称ではあるが、しかし、単語としては、それまで名づけられていなかった対象を正確に名指している。そのため岡田斗司夫が「おたく」を「オタク」とカタカナ語に言い換 え、蔑称的側面を脱臭し、意味内容のみを更新しようとしたように、セカイ系も意味内容の更新が行われようとした。

 だが、結果としてセカイ系は、それぞれが自身の肯定(あるいは否定)したい作品につけるマジックワードと化し、そしてまた各々の論者が、その意味の定義づけをめぐって独 自の論を立て合う言葉となってしまったのも事実である。

セカイ系に対する当惑

月に京都で行われたSFファンによるイベント「京都SFフェスティバル2004」における、作家

 こうした流れのなかで、セカイ系はネット上の一過性の流行語を超え、広く流通していくことになる。  しかし依然、その定義は曖昧かつ抽象的なままである。以下は2004年

・セカイ系への応答作品

・ループものの作品

 セカイ系という語の誕生以後、定義の変遷が起こるなかで、オタク文化において、セカイ系と名指されたのは、おおざっぱに、

 さて、これまではセカイ系をめぐる言説史をざっと眺めてきたが、もう一度、オタク文化のなかの作品に視点を戻そう。

ループものの伝統とゲーム的リアリズム

景だが、セカイ系という言葉をめぐる状況を的確に表した一幕である。

 話題を振った司会も、名指された作家も、観客も、誰一人としてセカイ系という言葉の意味を把握しておらず、しかし、それは妙に存在感のある言葉として存在する。滑稽な光

 長:セカイ系っていう風にレッテルを貼るのに、レッテルの中身がわかんないっていうのはなにごとやって。

 ──説明してやるっていう人、若者よ?

 ──誰かセカイ系の説明のできる人?

 長:定義が揺れていてなんなんですけど。定義の固まってない枠のことを喋るのはなんか。

 有:わたしもなんか。

 長:ぼくも未だに定義が揺れてるんですけど。

 有:なんなんでしょうね。

 長(長谷敏司:引用者註):セカイ系の定義ってどんなんですか。

 有(有川浩:引用者註):なんか、定義とかなんかを教えて頂いたら。

 ──(司会、柏崎怜央奈:引用者註)(中略)そうだもう一つは最近セカイ系というのがあるみたいなんですけど? あるんですか?

う。

の長谷敏司と有川浩による対談「京都対談」の一幕だが(有川のデビュー作『塩の街』は、しばしばセカイ系と呼ばれていた)、当時の混乱ぶりを如実に伝えるものと言えるだろ

11

 のふたつに分けられる。  これらは若干、重なり合っていたりもするが、便宜上、強引に分けた上で、それぞれ確認していきたい。

 ループものとは、時間SFの一種で、登場人物が何らかの原因によって、同じ1週間や、ある時点から自分が死ぬまでの間など、特定の時間を繰り返すものを言う。

 オタク文化においては、とりわけ押井守監督の1984年のアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が、学園祭1日前をずっと繰り返す主人公たちを描く

ことで、連載が何年続いても時間の経過しない原作のラブコメ世界の姿を自己言及的に描き出した問題作として、大きな話題を呼んだ。

『ビューティフル・ドリーマー』以後、オタク文化においてループものは、オタク文化やそれを消費するオタクたち自身の姿を描き出すものとして作られ、あるいは論じられるた

め、単なるSFの一ジャンルを超えた独特の立ち位置が与えられている。もちろん、ここで、これが『ビューティフル・ドリーマー』の影響なのか、それとも、ループものとオタ ク文化になんらかの関係があるためか? という問いが発生するが、本書では詳しく踏み込まない。

CHANNEL』などが発表される。またルー

年代には菅野ひろゆき(剣乃ゆきひろ)シナリオによる美少女ゲーム、1994年の『DESIRE』、

 ともかくオタク文化には『ビューティフル・ドリーマー』以降、ループものの独自の伝統がある。とりわけ、同じ時間を繰り返すというその物語構造は、何度も何度も失敗して やりなおしながらクリアを目指すゲームの構造と相性がよく、たとえば

 2005年には、セカイ系に言及した、あるいはその議論の影響下に作られたと思われる作品はさらに増える。

して使われた単語をタイトルに織り込んだ作品である。

を意識して書かれた作品と評した。あるいは西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』もまた、「きみとぼく」、「壊れている」、「セカイ」という、しばしば西尾維新の作品を評

恋人と小説家をめぐる『世界の中心で愛を叫ぶ』的物語の合間に、『最終兵器彼女』などを思わせる終末戦争の物語が挿入される作品で、前述のとおり、笠井潔は本作をセカイ系

 また、2004年以降、セカイ系が、そう名指され、定義されたことを受けて書かれた作品も多数現れてくる。舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』は、癌に冒された

セカイ系への反応

 ゼロ年代も後半に入ると、むしろこのようなループものこそがセカイ系である、とさえ認識されるようになるが、その点については次章で説明したい。

ループ者は、認識を共有する他者を失い内省的に(=一人語りが激しく)なる、という点も付け加えておこう。

命の直結」というセカイ系定義に合致するからである。さらに、これらの作品においてはループの記憶を保持するのは主人公ひとりだけという設定が頻繁に導入されることから、

り返し続ける。しかもこれらの作品において、しばしばループを脱出するカギは、恋愛など、個人的な人間関係に求められる。このような構造が「きみとぼくの関係性と世界の運

 そしてまたこれらの作品は、セカイ系と名指されることも多かった。ループものでは、主人公が巻き込まれた何らかの事情が解決されない限り、基本的に、世界は同一時間を繰

ロ年代を代表する潮流として指摘される。

講談社現代新書から刊行。また連載版は『文学環境論集 東浩紀コレクションL』に所収)でこうしたループ・ゲームやループ小説を、中心的に論じたことも手伝って、しばしばゼ

 東浩紀が『ファウスト』での連載評論「メタリアル・フィクションの誕生」(のちに改稿のうえ、改題されて『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』として

06年に公開された筒井康隆原作、細田守監督によるアニメ『時をかける少女』も、しばしばこれらの作品とならんで語られることになった)。

プ・ゲームの構造を小説に移し替えたとも読める作品も発表された。たとえば2004年の桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』や舞城王太郎の『九十九十九』などである(また20

 ゼロ年代に入ると、こうしたループ・ゲームの流れを継ぐ作品として、前述したKeyの『AIR』、Flying Shine『CROSS

1996年の『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』などの作品が送り出され、高い評価を受けている。

90

 たとえば『ハルヒ』の谷川流による『絶望系──閉じられた世界』『ボクのセカイをまもるヒト』という、タイトルからしてセカイ系という単語をいやがおうにも連想させる作品 おうそん

き じん

ひ しょう

を発表している。その他、セカイ系を意識して書かれたと思わしき作品として桜庭一樹『ブルースカイ』、藤原祐『レジンキャストミルク』、成田良悟『世界の中心、針山さ

ん』、扇智史『永遠のフローズンチョコレート』、西島大介『凹村 戦争』、ゲーム『機 神 飛 翔 デモンベイン』などを挙げることができる。

じゃ



 あるいは『電波男』など、萌えを全肯定したオタクならではの独自の恋愛論で一躍有名になった評論家、作家の本田透は「キモイ系文学を打ち出したいです。セカイ系に対抗し

て」と反ファウスト、反セカイ系をかかげ、ライトノベル誌(本田曰く、ライトヘビーノベル)『ファントム』を創刊している。また、京極夏彦が2006年に刊行した『邪 魅 の 雫』もセカイ系批判として読解可能なものだった。

セカイ系への応答作、風見周『殺×愛』

 そのようなセカイ系への応答、「セカイ系」という語が作られたことがきっかけになって描かれた作品の典型として2005年に刊行された風見周の『殺×愛─きるらぶ─』シ リーズを挙げることができる。

 相思相愛になった女性に殺してもらわなければ、世界が滅亡してしまうという運命を担わされた主人公を描いた物語で、明らかに「きみとぼくの二者関係と世界の運命の直結」 というセカイ系の定義を意識して書かれた作品である。  たとえばシリーズ第1作の『殺×愛0─きるらぶ ZERO─』には次のようなモノローグがある。   僕らのセカイは終わりに向かっていて。   悲しい想い出ばかりが増えていって。   それでも生きていかなくちゃいけないから。   だから、みんな、笑っている。   つまり、僕たちは、そんな風に痛みを抱えながら。   騙し騙し、生きているんだ。

 このように世界をカタカナで表記する点からも、セカイ系を意識した作品であると指摘できる。

 西尾維新も、谷川流も、セカイ系への応答作と呼べる作品を書いている。しかし、彼らのデビュー作は、セカイ系という言葉の誕生以前に書かれた作品である。その意味で、彼 らはセカイ系という言葉自体とは無関係に、セカイ系的だった。

 一方で、風見周は、デビュー作の『ラッシュ・くらっしゅ・トレスパス!』はスチーム・パンク風のファンタジー、また本シリーズの完結後に立ち上げた『H+P─ひめぱら─』 や『女帝・龍凰院麟音の初恋』などがラブコメであることを考えると、彼の作品歴のなかでも、本作はとりわけ異彩を放つ。

 逆に言えば、風見周のような、本来、セカイ系的資質を持たないように見える作家にまで、セカイ系的作品を書かせるほどの存在感を、この語は、ゼロ年代中盤に獲得してい た。

 すでに述べたとおり、セカイ系定義は、必ずしも正確に、ぷるにえらが当初に使用していたニュアンスを反映したものとは言えず、あるいは、その語が名指した作品の内容を正

確に説明していたとも言えない。しかし、『殺×愛』などの例があるとおり、このセカイ系定義は、まさにその存在によって、自身の定義に合致する作品を生むこととなった。そし

てそれらがセカイ系として名指され、さらなるセカイ系作品を生む。このような往復運動のなかで2004年以降のセカイ系作品は描かれていったと言える。

文芸運動としてのセカイ系 「オタク文化には評論が存在しない」とよく言われる。

 それがどこまで正確かはともかく、たとえばアニメ誌やライトノベル誌において作品自体が相互に参照されたりすることは少ない。たとえば『ハルヒ』の原作とマンガとアニメ がともに紹介されることはあっても、『ハルヒ』と「戯言」シリーズを比較して紹介するような試みはほとんどない。

 そんな環境にあって、多くの作家たちが、ネット上でどこからともなく生まれたセカイ系という言葉、あるいはセカイ系定義に反応し、作品をもってそれに応答したという事実 は、オタク文化の歴史にとって特筆すべき事態であると言える。  しかし、なぜ、セカイ系という曖昧で揶揄的な言葉がこれだけの反響を呼んだのか。

 応答といっても、たとえば、殊更に視野狭窄な(セカイ系的な)認識の人物を登場させ、これを悪役として設定することでセカイ系を批判する、といった作品もある。こうした 反応なら、まだわかりやすい。

 しかし、一方で、風見周の『殺×愛』は、セカイ系がセカイ系として批判される所以たる「世界の終わりと男女の恋愛が直結する」という荒唐無稽な構造を、意図的に導入し、そ の上で真摯な恋愛物語を描いた。なぜ、そのようなわざわざ批判されたり、揶揄されるような物語を描くのか?

 セカイ系は、セカイ系と名指され批判され定義されることで、かえって、セカイ系的構造を意図的に内側に取り込んだメタ・セカイ系とでも呼ぶべき作品群を数多く生み出し た。なぜこのような事態が起こったのか?  こう問うた時、むしろ、そのような自己言及的な構造こそがセカイ系の本質であったのではないか? と思えてくる。  以下、セカイ系について著者なりの独自の見解を示してみたい。

 すでに確認したように、セカイ系の定義は現在、百出しており、以下の論は、その混乱にあらたな一ページを付け加えるものとなるかもしれない。よって、これ以上、混乱した くないと思う読者は「セカイ系の終わり──物語からコミュニケーションへ」まで読み飛ばしていただければ幸いである。 セカイ系──自己言及性の文学

 すでに確認したとおり、一口にセカイ系と言っても、それで名指される作品は、驚くほどに多様である。しかし、やや、本書の趣旨からは外れるが、そんなセカイ系のコアを 「自己言及性」に求めてみたい。

「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」から「きみとぼくと世界の直結」へと定義が変わってもなお、自意識という共通点だけは保持され続けていた。もちろん、序章でもすで

年代中盤には、ロボットアニメ

に述べたとおり、自意識自体は、創作における普遍的なテーマにすぎない。では「セカイ系の自意識」とサリンジャーや太宰治、大江健三郎、村上春樹の自意識を区別することは 年代以降のオタク文化において、しばしば目につくのが、自己言及的な表現である。

できるだろうか?  

 特にループものは、同じ時間を繰り返すという点で、必然的に自己言及性をはらむが、そのような意識的、主題的な自己言及までいかずとも、 のなかの登場人物が「ロボットアニメみたいだ」と発言する、というような表現が頻出していた。

「ロボットだよ」「マジかよ」「デタラメだ」、と口々に言う。この描写は『機動戦士ガンダム』でアムロが「ザク」を目にした時の反応とは真逆である。

 簡単に言えば、アムロはそこで(第一次世界大戦で戦車を初めて目撃した兵士のように)「モビルスーツ」という未知なる巨大人型兵器と出合っている。それに対して、

的にロボットアニメなどを見て育った少年が、現実にロボットと出合ったらどうなるか、という表現である。

年代

に作られたロボットアニメの主人公は「巨大ロボット」という既知のものと出合っているのである。「顔、巨大ロボット?」という碇シンジの姿を通して描かれているのは、日常

90

 たとえば、エヴァンゲリオンを初めて見た碇シンジは「顔、巨大ロボット?」と発言し、あるいは『無限のリヴァイアス』でも、初めて出現したロボットを目撃した少年たちは

90

90

的にロボットアニメなどを見て育った少年が、現実にロボットと出合ったらどうなるか、という表現である。

・ ・



・ ・

 同様の描写はロボットアニメだけにとどまらない。むしろ活字媒体においてこそ、積極的に行われている。『ブギーポップは笑わない』もまた、 ・

  なんといっても、変身ヒーロー だ。

  ああいうものはテレビの中にしかいないから面白いのであって、現実に側にいられると混乱の元にしかならない。ましてや僕の場合は他人事ではなかったし。

 といったモノローグのもとに始まり、あるいは彼らが出合う事件の真相もまた、

  実際はどこかの生化学研究所の失敗作にすぎないんだろう。

 と、どこかから怪人が逃げ出すことってよくあるよね、という特撮ドラマの文法で理解されてしまう。

 あるいは『雫』。狂気をテーマとした本作の中で、主人公やヒロインたちが使う超能力は、「毒電波」「電波」と総称される。しかし、本来、「電波さん」、「デムパ」とは、

主に、妄想に捕らわれて奇矯な振る舞いをする人物に対して使われる蔑称であった。にもかかわらず物語のなかで、狂気に捕らわれてしまったヒロインは、みずからの力を「電

波」と呼ぶ。「原作」とも言える大槻ケンヂの『新興宗教オモイデ教』が超能力に「メグマ波」という固有名詞を与えていたのとは対照的である。同じような固有名詞の欠如は、 『最終兵器彼女』という、まったく身も蓋もないタイトルにも言える。

 また『イリヤ』でも、イリヤがなぜ戦っているのか、という真相は、わずか数行、まるでつまらない映画のあらすじでも説明するかのように、唐突に語られてしまう。  あるいは『涼宮ハルヒの憂鬱』もまた、プロローグのなかで主人公の少年に、

  俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織が目の前にふらりと出てきてくれることを望んでいたのだ。

 と語らせ、それがあくまでフィクションのなかの存在であり、現実には存在しないのだ、ということを示す。そのような手続きを踏んだ上で、ヒロイン・涼宮ハルヒに、

 「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

 という有名な台詞を語らせ、虚構の存在であるはずの宇宙人、未来人、超能力者のキャラクターたちを登場させる。

 あるいは西尾維新ら『ファウスト』作家たちも、しばしば作中で密室や名探偵について否定的な自己言及を行いながらも、実際に探偵や密室殺人を登場させる。

 そしてセカイ系という語が登場し、定義されると、タイトルや作中で明らかにセカイ系を参照したと匂わせる作品が生まれてくる。

 これらの諸作品では、ほとんど過剰なまでに、自分たちの出会う不思議な登場人物や事態が、フィクショナルでチープなもの(ロボットアニメ、侵略SF、変身ヒーローもの、 本格ミステリ、そしてセカイ系)でしかないと作中で指摘し続けるのである。  しかし、それらをちゃかしたり笑ったりするのではなく、きわめて深刻な自意識の悩みという主題を展開する。  では、そうした作品の著者たちは、なぜわざわざ、みずからの作品を貶めるような真似をするのか?





































































  注:例外として、これまで取り上げてきた作品でも、新海誠の『ほしのこえ』には、そのような自己言及性はほとんど見られない。しかし制服姿の女子高生が、なんの説明もなく、ロボットに乗って宇宙で戦う、とい う唐突さが、かえって視聴者の側に「アニメってこういうものでしょ?」と問われたかのような感覚を呼び起こさせる作品ではある。

半透明な文体とセカイ系

 東浩紀は、著書『ゲーム的リアリズムの誕生』のなかで、このようなセカイ系の構造を支えるものとして、大塚英志(と柄谷行人)の議論を参照しつつ、半透明な文体という概 念を提示している。

 筆者なりにかいつまんで解説したい。現実をありのままに描き出そうとする自然主義的リアリズム(柄谷の言う透明な言葉)に対して、アニメやコミックという世界のなかに存 在する虚構を写生するのが、まんが・アニメ的リアリズムである。

 ごく簡単な例えで言うと、私たちの多くが夏目漱石や太宰治(あるいは伊坂幸太郎や石田衣良でもいい)といった自然主義的リアリズムで書かれた作品を読むと、おそらく頭の

なかでは実写映画として再生されるはずである。一方、新井素子や谷川流といったライトノベル=まんが・アニメ的リアリズムで描かれた作品を読む時、読者たちの頭には、アニ メのような映像が再生される。

 このふたつのリアリズムの対比に、東は、大塚のもうひとつのキータームである「アトムの命題」を結びつける。大塚英志は著書『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主

題』のなかで、手塚治虫の作品を論じ、日本のマンガ文化のターニングポイントを、通常言われている『新宝島』ではなく、『勝利の日まで』という作品のフクちゃんというキャ

ラクターが米軍の戦闘機に撃たれて血を流す場面に求める。大塚によれば、この時、本来、平面的な身体、死なない身体と傷つかない心しか持たないはずだったマンガのキャラク

ター(生身の人間ではなく、マンガのなかの人物なのだから当たり前だ)が、しかし、傷つく身体を手にしてしまったのだという。そして、以来、日本のマンガ表現のなかで描か

れるキャラクターたちには、記号的な傷つかない身体と、生身の傷つく身体という二重性が宿り、それが手塚治虫作品の主題となっていたのだという。『鉄腕アトム』の主人公ア

トムが内面を持ちつつも成長できないロボットとして描かれるのは、まさにこの二重性があるがゆえであり、大塚は、これをアトムの命題と呼んだ。





 大塚は、それが『巨人の星』の星飛雄馬、『あしたのジョー』の力石徹、『仮面ライダー』や『サイボーグ009』など、戦後まんがに通底する主題であったとする。そして、



東の議論によれば、日本のマンガに宿るこのような傷つく身体と傷つかない身体の二重性は、そのまま、まんが・アニメ的リアリズムのなかに流れているという。

・ ・























  まんが・アニメ的リアリズムは、記号的でありながら「自然主義」の夢を見る、すなわち、不透明で非現実的な表現 でありながら現実に対し て透明であろうとする矛 盾を抱え た 、マンガ表現のそのまた 「模倣 」として作られた言語である

 とし、まんが・アニメ的リアリズムは、自然主義的なリアリズム(透明な言葉)とは異なるが、かといって自然主義以前、前近代の不透明な言葉とも異なった半透明の言葉であ ると東は言う。そして、

  キャラクター小説の文章が、あたりまえの風景を描写していたとしてもつねにどこか噓くさく(だからこそそれは多くの読者に違和感を感じさせる)、逆にまったくの幻想的

な世界を描いたとしてもどこか「リアル」に感じられてしまう(だからこそそれは若い読者の感情移入を誘う)のは、おそらくその両義性があるためだ。   (中略) ・







































  セカイ系の小説は、そのようなキャラクター小説の言葉の特性を最大限に活かして作られている。そこでは一〇代の平凡な主人公を取り巻く平穏な学園生活の描写で物語が始

まり、かつその日常性を維持 したままでありながら 、ヒロインが戦闘機のパイロットであったり(『イリヤの空、UFOの夏』)、同級生が宇宙人であったり(『涼宮ハルヒの

憂鬱』)、学園生活そのものが仮想世界であったりする(『ぼくらは虚空に夜を視る』)、非現実的な世界が淡々と描かれていく。日常と非日常を直結するそのような物語展開

は、作者の想像力や読者たちの感性よりもまえに、前近代の語りとも近代の言文一致体とも異なった、ポストモダンのハイブリッドな「文体」によって可能になっているのだ。

 と、セカイ系の根拠を、文体そのものに求める。

自己言及の運動こそがセカイ系を成立させる

 東の説明は非常に明快だが、それはあくまでセカイ系の立つ土台を指し示したに止まっている。たとえば、大塚英志が、まんが・アニメ的リアリズムの起源として求めるのは、

1977年にデビューした新井素子である。その説明に従うのなら、以後のライトノベルはずっと、半透明な文体で書かれていたはずである。

 しかし、同じ文体を用いながらも『ブギーポップは笑わない』以前のヒット作、『ロードス島戦記』や『スレイヤーズ』は、なぜかセカイ系と呼ばれることはない。その半透明 性が明らかになるには、あくまで東の言う「日常と非日常が直結する物語」が必要なのである。

 そこで、東の議論を、内容と文体の双方から目指される半透明性こそが、セカイ系のキーポイントである、とパラフレーズしてみたい。そうすれば、前述したセカイ系諸作品の 過剰な自己言及性も説明することができる。

「自然主義的リアリズム」の文体と「まんが・アニメ的リアリズム」の文体、透明な文体と半透明な文体は、どちらも紙の上のインクにすぎない。直木賞作家となった桜庭一樹を

年間に渡って、破

はじめ、有川浩、橋本紡など、現在では多くのライトノベル作家が一般文芸への「越境」を果たし、人気作家となっているように、その文体の境目は、しばしば簡単に、まったく 意識されずに乗り越えられてしまう。

 あるいはまた「まんが・アニメ的リアリズム」の文体は、それだけでは内に秘めた「アトムの命題」=半透明性という問題系を呼び覚ますことができない。

る。

 たとえば大塚英志の一連の著作は、なぜ紙の上の虚構にすぎないマンガのキャラクターが、生身の人間の鏡像たり得るのか、という率直な問題意識に貫かれているように思え

か。

 このことは、何も、小説だけに限らない。マンガやアニメが荒唐無稽だと認識するのは、幼い頃からマンガやアニメに親しんできた人間にとって、実は難しいことなのではない

二度目の、アトムの命題

セカイ系は定義され、認知され、あるいは揶揄されればこそ、隆盛したのである、と結論することができる。

 半透明な文体=アトムの命題は、登場人物によって、作中の出来事がチープで荒唐無稽で虚構的な事態だと名指され(揶揄され)なければ、立ち上がってこない。だからこそ、

 東が言うセカイ系の半透明性は、このような自己言及の運動によって、成立していると筆者は考える。

殺人、セカイ系のなかへと投げ込むのである。

間、言わば透明な文体で描かれるべき存在であることを明らかにする。そして、そのうえで、彼らを、まさに当の彼ら自身が虚構であると名指した不透明な世界=宇宙戦争、密室

マンガチックな、虚構の存在にすぎないことを示そうとする。そして、そのことによって登場人物がマンガをマンガと指摘できる、近代的な自意識と、傷つく身体を持つ生身の人

 だからこそ前述した諸作品は、読者と同じ現代に生きる若者を登場させて、過剰なまでの自己言及を行い、巨大ロボットや最終兵器、名探偵や宇宙人、そしてセカイ系などが、

 つまり、文体だけでは、半透明性は成立しない。

永遠にマンガ的な活躍を繰り広げる物語を可能にするにすぎない。

天荒な少女魔法使いを主人公にしたドタバタコメディを描き続けているライトノベルの人気シリーズ『スレイヤーズ』のように、同じ時間を生きながら成長もせず傷つきもせず、

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る。

 しかしながら後続世代、物心ついた時から、アニメもマンガも、技法が十分に成熟していた世代にとって、アニメやマンガ、あるいはゲームに自己を投影することは、ごく当然 のこととして認識されるだろう。

 だからこそ『新世紀エヴァンゲリオン』の後半において、碇シンジという薄いセル画の上の絵が、庵野秀明という一個の自意識の受け皿となり、作品を完全に破綻させるほどの

勢いで「アイを叫ぶ」という事件が起こるまで、オタクたちはマンガやアニメのキャラクターたちが、生身の人間と同じような身体や自意識を持つということの、あるいはそこに みずからの自己を投影することの不自然さを認識していなかったのではないだろうか?

 そして『エヴァ』という事件によって芽生えた不自然さへの驚きと問いこそが、セカイ系とも名指された自己言及の運動であったと筆者は考える。

 なぜ自分たちは、ゲーム、マンガ、アニメ、ライトノベルといった虚構の世界の人物に、巨大ロボットや宇宙戦争や密室殺人などという物語に、率直に自己を重ね合わせ、感動 しているのか?

 それを問うためにこそ、ポスト・エヴァの作品たち(その多くがセカイ系と名指された)は、みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語 を語ろうとしたのではないだろうか。

 いささか物語的にすぎる言い方かもしれないが、『エヴァ』というセカンド・インパクトによって、オタクたちが、改めて自分たちが拠って立つ表現媒体の、アトムの命題を自

覚し、表現技法の進化によって隠蔽されてしまった、傷つく身体と傷つかない身体の二重性、矛盾を自己言及によって掘り返し、再び問い直した時代こそが、ポスト・エヴァとい う時代だったと筆者は考えている。

セカイ系の終わり──物語からコミュニケーションへ  やや、著者独自の論に入りこんでしまった。  ここで、一度、視点をニュートラルに戻し、セカイ系とは何かをもう一度振り返ってみよう。  2006年までのセカイ系は、次のような3段階でまとめることができるはずである。

・1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』は、作品の内容においても、視聴者の受容態度においても、大きな変化をもたらした。そして、ゼロ年代初頭にポスト・エヴァの作品

が模索されるなかで、オタク文化の典型的なガジェットを用いながらも思春期の問題に焦点を当てた「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」作品群が、2002年にぷるにえ 年)。

年)

  一九九五年が『新世紀エヴァンゲリオン』の年で、一九九六年が『雫』の年なんですが、それ以降、僕たちの周りの作品にはひとつの共通したフォーマットがあったと思うん

間に提出した『美少女ゲームの臨界点』自体、そのなかの座談会において東浩紀自身が、

 だが、ライトノベル・ブームによって延命されたとはいえ、その盛り上がりも2005年、遅くとも2006年には一段落したと言っていいだろう。そもそもセカイ系定義を世

とに新たなセカイ系作品が描かれることとなった。(2004─

06

・そのことで当初、セカイ系と名指されていた作品やニュアンス(たとえばポスト・エヴァという歴史的括りや、西尾維新など)が外れてしまうが、しかしこのセカイ系定義をも

抽象的で非時代的な定義へと変化した(2004年)。

した小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」といった

・それがバズワードとしてネット上で流通する過程において、ライトノベル・ブームに後押しされる形で文芸評論家にも注目され、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心と

により、「セカイ系」として名指された(2002─

03

  一九九五年が『新世紀エヴァンゲリオン』の年で、一九九六年が『雫』の年なんですが、それ以降、僕たちの周りの作品にはひとつの共通したフォーマットがあったと思うん

ですよね。ひとことで言うと実存主義化で、『エヴァ』以前には、思春期の悩みがストレートにアニメやゲームで表現されるのは決してメインストリームではなかった。けれど

も一九九五年以降は、美少女ゲームだけではなく、サブカルチヤーのチープさをまといつつ、トラウマや癒しをテーマにした作品がばっと増えた。これは『エヴァ』が作り上げ

た独特のパラダイムと言えると思うんだけど、奈須さん(引用者註:奈須きのこ)や冲方さん(引用者註:冲方丁)というのはそこから連続しているようでいて切れている。

『エヴァ』的な屈折を通り抜けて、すごく素直に伝奇やサイバーパンクに帰ってしまっているわけです。そういう意味では、いま確かにオタク周りの風景は急速に変わりつつあ る。

 と指摘している。

 東が指摘する『エヴァ』が作り上げた独特のパラダイムとは、主にKey作品を始めとした美少女ゲームのことだろうが、セカイ系と名指しされた作品も含まれているだろう。 とすればセカイ系定義は、セカイ系の終わりという認識から作られた書籍から始まったという、これまたややこしいことになる。

物語消費への回帰──『月姫』、『Fate/stay night』

 ところで、東がここで言及している奈須きのこは、ゼロ年代のオタク文化を考える上で絶対に避けて通れないクリエイターである。

  シナリオを手がけた同人ゲーム『月姫』(2000年)で大ヒットを飛ばし、その後、企業化、商業第1作『Fate/stay night』(2004年)でさらなる人気を得た。現在、美少女

ゲームの分野ではもっとも人気のあるゲーム・メーカーと呼んで差し支えないと思うが、しかし、その作風は、Leafの『ToHeart』から『ONE』、『Kanon』、『AI R』と続いてきた恋愛ゲームの系譜から外れた、伝奇アクション色の強い作風である。

 美少女ゲーム的な萌えは維持しつつも(たとえば毎朝、女の子が起こしに来てくれたり等々)、吸血鬼の少女との出会いにより、少年が世界の裏側で行われるヴァンパイア同士

年代の伝奇小説に源流を求めることができるだろう(実際、その後、奈須の作風を受け継

の戦いに巻き込まれていく『月姫』、魔術師同士が聖杯と呼ばれるマジック・アイテムをかけて、古代の英雄を呼び出してのバトルロワイヤルを繰り広げる『Fate』など、そ の作風はむしろ、ライトノベルの始祖とも言える、菊地秀行や夢枕獏によって書かれた

 ヒットの要因としては、何をおいてもアニメ自体のクオリティの高さが挙げられる。『ハルヒ』を手がけたアニメスタジオ「京都アニメーション」は、その後も『らき☆すた』

 主題歌、挿入歌が相次いでオリコンチャートにランクインしたのを皮切りに、アニメDVDは各巻8万本を超える売り上げを記録する記録的大ヒット作となった。

『涼宮ハルヒの憂鬱』のテレビアニメ版である。

 しかし物語消費への回帰とともに、コミュニケーションとしての作品消費、という新たなパラダイムが立ち現れてくる。先駆けとして挙げたいのが、2006年に放送された

新たな時代の幕開けとしての『ハルヒ』ムーブメント

帰が始まったという東の史観を支持したい。

 しかし筆者も基本的には、2004年の『Fate』においては、ゼロ年代初頭の『ほしのこえ』などが排除した物語消費が復活を始めたという意味で、『エヴァ』以前への回

く。

がセカイ系定義における「中間項の削除」と結びついたこと、また『Fate』もループ・ゲームの様相を取っていることで、そう指摘されたことも皆無ではないと補足してお

 ただし『月姫』の主人公・遠野志貴は、「直死の魔眼」=対象の死を見ることができ、これに触れることでどんな相手も殺すことができる、という特殊能力を持っている。これ

気を誇っている。そのような理由から、基本的にはセカイ系と名指されることは少ない。

 なお、奈須作品は、背後に膨大な設定群を持ち、また、それぞれの作品が世界観を共有する、物語消費的な作品で、そのような設定を解説した副読本なども、ユーザーに高い人

いだとおぼしきライトノベルの諸作品が流行し、その分野は「現代学園異能」と呼ばれている)。

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 ヒットの要因としては、何をおいてもアニメ自体のクオリティの高さが挙げられる。『ハルヒ』を手がけたアニメスタジオ「京都アニメーション」は、その後も『らき☆すた』

『けいおん!』などヒット作を連発し、ゼロ年代の日本アニメを代表する存在となった。しかし、もうひとつ、このアニメが、視聴者に積極的な行動を呼び起こさせ、「祭り」と も呼ばれるムーブメントとなった点を指摘したい。

 アニメの特徴のひとつが、原作の時系列をシャッフルした構成をはじめとする、ちりばめられた無数の謎と小ネタである。原作未読の視聴者にはきわめてわかりにくいが、逆に 原作ファンであれば大いに刺激されるものだった。

 結果としてネット上では『ハルヒ』の解説記事などがあふれ、原作未読の視聴者が訪れ、「『ハルヒ』を語ればアクセス数増加が見込める」という状態になってさらなる記事が 生まれ──、と、ネットを通じた口コミの連鎖がヒットの起爆剤となった。

 アニメ版『ハルヒ』は、作品というよりむしろコミュニケーション・ツールとして消費されたと言える。思春期の自意識を主題とした作品でありながらその消費のされ方は、た

とえば『EOE』の碇シンジに感情移入し「シンジ君は僕なんです!」と叫ぶような自己投影的な態度とはまったく異なるものであった。

 むしろ膨大な謎と、それをもとにしたコミュニケーションという点では、オタクの文学としての『エヴァ』ではなく、前半の究極のオタク向けアニメとしての『エヴァ』に近 い。自意識とは無縁のコミュニケーション・ツールとして「利用」されたのである。

年代後半からゼロ年代の前半にかけて、活字がオタク文化の中心を担ったと述べた。しかし、2002年には『機動戦士ガンダムSEED』が大

 こうした作品を通じたコミュニケーションを楽しむツールとして、2006年末には、ニコニコ動画が登場するが、アニメ『ハルヒ』は、そうした時代の空気を敏感に先読みし た存在だったと言える。  ところで、『エヴァ』以降、

 そうした流れを最終章で検討したい。

 そんななか、2007年になると、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』の登場などをきっかけに、セカイ系の主戦場は、批評家・東浩紀を中心とした論壇へと移り、現在に至る。

ケーション・ツール化=脱物語化が進んでいく。

 そしてゼロ年代中盤以降、TYPE-MOONという物語消費への回帰を経て、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』を皮切りに、ニコニコ動画や『東方Project』などで、コンテンツのコミュニ

ん!』、『化物語』などといった作品が続き、ゼロ年代後半になると、アニメが再び、オタク文化の中心としての存在感を取り戻していく流れを指摘できる。

ともに『コードギアス 反逆のルルーシュ』などの大ヒットアニメが次々登場し、それ以降も『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』、『らき☆すた』、『マクロスF』、『けいお

ヒットしたのをはじめ、2004年には続篇『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』や『鋼の錬金術師』(原作は、荒川弘のマンガ)、そして2006年は『ハルヒ』と

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第4章 セカイが終わり、物語の終わりが始まった? 2007─09年

セカイ系の終わりと再興  すでに見たように、「セカイ系」なる言葉はバズワードとして、2002年末から

年にかけて、再び隆盛した。しかし、その流行も、『美少女ゲームの臨

年前半にかけてネットのなかで一時的に流行し、そして飽きられつつあった。それが、折し

ものライトノベル・ブームなどで批評家たちが活字媒体で用いることにより再定義され、2004年から

ン』に2007~

年にかけて連載された。連載第1回目から、論文中で批判の対象となった東浩紀自身に、

 第1章でも引用したウェブサイト「惑星開発委員会」の管理者(善良な市民名義)であった宇野の初の連載評論「ゼロ年代の想像力」は、早川書房のSF専門誌『SFマガジ

宇野常寛の登場──『ゼロ年代の想像力』によるセカイ系の復活

 にもかかわらず2010年の現在までセカイ系という言葉は流通し続けている。それは、何より宇野常寛『ゼロ年代の想像力』という強力なセカイ系批判の登場ゆえである。

ブサイトでセカイ系的作品を書評するなどしていたが、実感として終わりは感じていた。

 遅くとも2005年末には、セカイ系の終わりは認識されていたと言っていいだろう。筆者も、評論家の笠井潔らとともに、限界小説研究会という勉強会を立ち上げ、そのウェ

界点』に象徴されるようにあくまで「終わりつつあるのかもしれない」という認識のもとでの、半ば撤退戦のような色が強い。

06

03

 一方、2000年代に入ると、9・

ら中盤の大きな流れになっていく。



がみライト

アメリカ同時多発テロ、小泉改革、格差社会意識の浸透によって、引きこもっていては殺されてしまうという「サヴァイヴ感」が社会に広

 宇野は、その代表として2003年から

年にかけて連載された大場つぐみ原作、小畑健作画のマンガ『DEATH NOTE』を挙げる。同作は、名前を記した人間を死に至らしめる

 宇野は、こうした新たな時代精神と、それを反映した作品群が勃興しているのにもかかわらず、東浩紀とその影響下にある論者(宇野の言葉では、「東浩紀の劣化コピー」)た

デスノートを手に入れた夜 神 月 という学生が、その力を持って社会変革を成し遂げ、「新世界の神」となろうとする物語である。

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 「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という、ある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サヴァイヴ感」を前面に打ち出した作品は、ゼロ年代前半か

そのなかで、その時代性を反映した作品が生まれる。

く共有され始める。そんななかで、何も選択しないことの不可能性が明らかになる(そこでは、何も選択しないことは、何も選択しないということを選択した、と見なされる)。

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傾向とその結果出力された「~しないという倫理」が、その特徴であるとされる。

に共有される価値観)が崩壊し、正しいことが何かわからなくなり、何かを成そうとすれば必然的に誰かを傷つけるという時代の空気から生まれた、「引きこもり/心理主義」的

 宇野によれば前者は「九〇年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とする古い想像力」である。その代表は『新世紀エヴァンゲリオン』であり、大きな物語(社会全体

作品が論じられる。

 2008年に単行本として刊行された『ゼロ年代の想像力』は、基本的に古い想像力(1995年後半の想像力)と新しい想像力(ゼロ年代の想像力)という二項対立を中心に

 とブログで紹介されたこともきっかけとなって、雑誌掲載の評論としては近年では、異例とも言えるほどの反響を巻き起こした。

のような批判が自分より7歳下から出てきたことを嬉しく思います。

  宇野常寛さんが『SFマガジン』7月号で連載を始めた「ゼロ年代の想像力」を読みました。第1回はほとんど東浩紀批判なのですが、この批判には一定の説得力があり、そ

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ちはその変化を捉えることができていない、と言う。そして、

  では、そんな東浩紀とその劣化コピーたちが現代の想像力として掲げるものは何か。それはポスト・エヴァンゲリオン症候群=「セカイ系」と呼ばれる、その名のとおり『新 世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある一連の作品群である。

 と論じ、ゼロ年代初頭に花開いたセカイ系は、登場した時点ですでに時代遅れであったとする。そして、東浩紀が、時代の感性を捉え切れていないと手厳しく批判する。

同時多発テロ、小泉改革、『DEATH NOTE』のゼロ年代へ、と時代を整理し、その流れの反映として、セカイ系から決断主義へ

 この「決断主義」的傾向の作品こそを論じ、そして引きこもるだけのセカイ系でも、自分勝手な大義で人を傷つける決断主義でもない「ポスト決断主義」の想像力が、今現在求 められている、というのが宇野の議論である。

セカイ系=引きこもり?  震災・オウム・エヴァの1995年から、9・

多いが、その反対者も、セカイ系対決断主義という図式は受け入れている場合が多い。  しかし、この図式自体は、前章で引いた東浩紀『美少女ゲームの臨界点』におけるKey(『AIR』麻枝准=

年代とサヴァイヴァルのゼロ年代とい

年からの記憶)とTYPE-MOON(『Fate』、奈須きのこ=

年の記憶」をセカイ系と、「回帰」を決断主義とリネームした上で、東とは逆に後者を評価し、引きこもりの

回帰)という対立図式を基本的には踏襲したものと言える。  宇野の議論の新味は、「

活性化させた。

より若手の論者としてはほとんど初めて、明確に批判的な立場を打ち出したことにあるだろう。その登場と、東浩紀との応酬は、ゼロ年代後半、オタク文化をめぐる議論を大いに

 とはいえ、このような偏りは指摘できるものの、宇野の最大の功績は、ゼロ年代のオタク文化をめぐる議論において、まぎれもなく中心的な位置を占めてきた批評家の東に、彼

ジックを向けようとしない。

を母性が肯定する作品であると鋭く批判する。だが、西尾維新の「戯言」シリーズにおいても、哀川潤という女性キャラクターが作中で重要な役割を果たす点には、この鋭利なロ

「九〇年代後半的な承認欲求をめぐる自意識の拘泥を描いた」作家として、セカイ系に分類されてしまう。あるいは宇野は、『Kanon』や『最終兵器彼女』を少年のマチズモ

 として、決断主義に分類される一方、おそらく同様のテーマを描いた作品としてはもっとも初期のものであろう『エナメルを塗った魂の比重』を2001年に著した佐藤友哉は

  教室というシビアな自意識バトルが繰り広げられる空間でいかに「生き残るか」という「サヴァイヴ感」は広く共有されていた。

 一例を挙げるなら、スクール・カーストものとも総称される教室内の人間関係をテーマとした作品のうち、白岩玄『野ブタ。をプロデュース』は、

品と決断主義的作品の仕分けの仕方にはやや恣意性が残ると言わざるを得ない。

的作品には、その批判の矛先は向かわない。そのため、しばしば宇野は、セカイ系を批判し、決断主義を擁護する論者として誤読されてしまっている。そしてまた、セカイ系的作

批判する。読み物としての同書の面白さは、なんと言ってもその激しいセカイ系批判の語り口にある。その一方で、本来であればセカイ系とともに批判されるべきはずの決断主義

 宇野はウェブサイト「惑星開発委員会」に引き続き、『ゼロ年代の想像力』でセカイ系をポスト・エヴァンゲリオン症候群と呼び、またその特徴を引きこもり的な心性に求めて

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という図式を提示する議論は大変明確であり、多くの支持を集めた。セカイ系を「引きこもり」と一刀両断するなど、宇野の批判は大変に舌鋒鋭いため、その主張に反対する者も

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う社会反映論として論じたことにあると言っていいだろう。

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  注:ちなみに、宇野が関わったサイト「惑星開発委員会」では、セカイ系について次のように書かれている。   「私はこの「セカイ系」を技法としてはそれなりに評価したい。少なくとも「青臭いから」という理由で批判する立場には組しない。    ただ、若干の「セカイ系だから」という理由での過大評価は受けていると思う」    なお、この文章の書き手は、「片岡」となっている。

東浩紀はセカイ系の擁護者か?  ただ、東浩紀批判として行われた宇野のセカイ系批判により、セカイ系という言葉はさらなる混乱を抱え込むことになる。

 宇野は東をセカイ系擁護者として批判し、おおむね、東浩紀=セカイ系支持者という図式は受け入れられている。しかし、東の議論を追っていくと、それには疑問符がつくから だ。むしろ、東は、折に触れて、自分がセカイ系の擁護者ではないということを明言している。

 たとえば東が最初にセカイ系という言葉を用いただろう『ゲームラボ』の座談会で、『イリヤ』をセカイ系の典型に挙げ、戦争礼賛文学として批判していたことは、すでに第2

章で確認したとおりだ。あるいは、2007年に宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」に触発される形で始まったセカイ系論「セカイから、もっと近くに!──SF/文学論」の第1回 (『ミステリーズvol.26』)でも、

  たとえば、ぼくは、五年前に『ほしのこえ』について、そこに描かれた主題は「イメージの組み合わせで機械的に連想されてくる」「希薄」なものにすぎないから、分析する

ことには意味がないと述べている(中略)。この春に出版した『ゲーム的リアリズムの誕生』でも、セカイ系の作品は、まんが・アニメ的リアリズムが可能にした例として触れ られるだけで、内容の分析は避けられている。そのようなぼくの立場は、セカイ系を「擁護」するものとは言いがたいはずだ。

 とはっきり述べている。

 ただし、本書がセカイ系の分析において東の「データベース消費」、「半透明な文体」といった理論を援用しながら議論を進めてきたように、セカイ系の擁護者が東の議論を援 用することが多かったのは事実である。

 また、しばしば、セカイ系定義の出典も東の発言に求められる。たとえば東は、アニメ監督・幾原邦彦の発言を引きつつ、次のように述べている。

  それで彼の話によると、最近の若い子は、すごく近いこととすごく遠いことしか分からない。それは小室哲哉の曲の歌詞からも分かることで、恋愛か世界の終わりか、いま一

〇代はそのどちらかにしか興味がない。言い換えれば、恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とが、彼らの感覚ではペ タッとくっついてしまっていると言うんです。

「郵便的不安たち──『存在論的、郵便的』からより遠くへ」と題されて単行本『郵便的不安たち』に収録されたこの講演は、1998年に行われたものだが、セカイ系の説明であ

ると言ってもまったく違和感がないだろう。東浩紀はセカイ系という語が誕生する以前から、セカイ系について論じてきたとさえ言える。

 その意味で、東のテキストが、セカイ系の誕生、流行に大きく寄与しているのは事実である。しかし、その多くは基本的に客観的、中立的な状況分析の記述であり、セカイ系を 擁護するものではないと思われる。

 ただし、しばしば記述することが、擁護と受け取られる事態はある。たとえば「机の上にペンがある」という文章自体は、単に事実を記述しただけのものにすぎない。しかし、

たとえば「今、セカイ系作品がオタクたちの間で流行している」という一文はどうだろうか? あるいは、宇野は東のセカイ系擁護の根拠として「美少女ゲームとセカイ系の交差 点」(『美少女ゲームの臨界点+1』所収)から次のような一文を挙げる。

  僕たちは象徴界が失墜し、確固たる現実感覚が失われ、ニセモノの満ちたセカイに生きている。その感覚をシステムで表現すればループゲームに、物語で表現すればセカイ系 になるわけだ。

 人によっては、この記述をセカイ系を評価するものと解釈するかもしれない。

 東は、デビュー作『存在論的、郵便的』のなかで、事実確認的(コンスタティブ)と行為遂行的(パフォーマティブ)という言語表現の区別を紹介している。前者は事態を記述

しようとするもので、後者は発言によって何か行為を成そうとするものである。たとえば「この犬は危険である」という張り紙は、コンスタティブにとればそのままの意味だが、 パフォーマティブには、「近づくな!」という意味になる。

 この例で言えば、東自身はコンスタティブにセカイ系を記述しただけのつもりが、宇野をはじめとする批判者にはパフォーマティブな、セカイ系を擁護する行為として認識さ れ、批判されたと整理できるだろう。

ゲーム的リアリズムとセカイ系の合流

CHANNEL』についても「セカイ系に典型的な設定を導入しつつ、それに対する批判的視線も配置しているきわめて練り込まれた作品

 しかし、少なくとも宇野常寛の登場以前に、東浩紀がなんらかの作品を、セカイ系として擁護、評価したことはないはずである(前述した「美少女ゲームとセカイ系の交差点」

で論じた美少女ゲーム『CROSS

である」として、むしろセカイ系批判として評価している)。

年の記憶」といった形容詞を与えて評価しているのであって、セカイ系として評価したわけではな

 宇野が、東が評価したセカイ系としてその名を挙げる桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』にせよ、舞城王太郎『九十九十九』、ゲーム『AIR』にせよ、東自身は、これらの作品 に「ゲーム的リアリズム」や、「メタリアル・フィクション」、あるいは「 い。

まっている。

 にもかかわらず、宇野が東の議論を「セカイ系擁護」として批判し、さらに東がそれに応答したことで、結果的に、セカイ系と東浩紀の問題意識が半ば、イコールで結ばれてし

の作品に、ゲーム的リアリズムの問題系を見いだすことは、おそらく不可能だろう。

 たしかにループ・ゲームの多くはセカイ系と呼ばれてきたが、セカイ系は必ずしもゲーム的リアリズムとイコールで結ばれるわけではない。たとえば『ほしのこえ』や西尾維新

う言葉で名指される範囲と重なっていた、という説明が妥当と思われる。

 そんな東が、ゼロ年代に自身のテーマを、オタク文化のなかの、主にループものに発見し、『ゲーム的リアリズムの誕生』などで評価したのだが、たまたまそれがセカイ系とい

である小説『クォンタム・ファミリーズ』まで変わらない。

安たち』所収)から、一貫して、ほかの私でもありえたかもしれない私、確率、偶然にさらされた人間というテーマを追求している。それは2010年1月現在、彼の最新の著作

 そもそも東は、ノーベル文学賞を受賞したロシアの作家・ソルジェニーツィンを「確率の手触り」という視点から論じたデビュー評論「ソルジェニーツィン試論」(『郵便的不

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『ゼロ年代の想像力』の刊行以後、東はしばしばセカイ系を擁護する発言を行うようになったのも事実である。しかし宇野の批判するセカイ系が実質「東浩紀が評価したもの」で ある以上、それは、いささかトートロジーだと言わざるを得ない。

 東と宇野は、現在、セカイ系と決断主義という対立軸の上で論争を行っている。しかし東はセカイ系を擁護していない。また、宇野も決断主義を擁護しているわけではない。  ふたりが対立する必要はあるのだろうか?

セカイ系批判の困難さ

 ともかくもゼロ年代後半に宇野常寛『ゼロ年代の想像力』という批判者を得たことで、セカイ系をめぐる議論はオタク文化から論壇に主戦場を移し、再度活性化した。

 もちろん、単に東VS. 宇野というプロレスのリングが設定されただけ、という意地悪な見方もできるだろう。しかし、何度も確認するが、ぷるにえが「若干の揶揄を込めて」と記

したように、セカイ系という言葉は当初から批判的な意味合いを持っていたし、実際、批判的に使われた。にもかかわらず、セカイ系は隆盛した。すると、むしろ、セカイ系は批 判との共依存的関係にあるのではないか、という疑問が湧いてくる。

 セカイ系へのもっとも一般的な批判は、この作品には大人たちの社会が書かれていないという「社会の欠如」を指摘するものだ。しかし「少年少女が世界を救う」という物語自

体は、ごく一般的である。たとえば『ドラゴンクエスト』のようなコンピュータ・ゲームや『ドラゴンボール』のような少年マンガでも、社会を抜きにして少年の勇者やヒーロー が世界を救う。なぜ『ドラクエ』がセカイ系と呼ばれないのか。それはそのような構造自体が、作中で言及されないからだ。

 逆に、セカイ系は社会領域が欠如していることを作中であからさまに述べてしまう。それがどんなにバカバカしいことかの呟きと共に。そうした作品に対し、「社会が欠如して

のデビュー作

いる」という批判は、ほとんど効果がない。むしろ、批判はかえって作品にとって有効である。「まったくだ、自分もバカげているのはわかっている、だけど──」という身振りに 即座に変換されるからだ。

あきら

 宇野は、セカイ系の身振りを引きこもり的と論じた。だが、そうした批判自体は、宇野が初めてではない。少女小説の大家である久美沙織もまた、作家・日日日 『ちーちゃんは悠久の向こう』の解説で次のように言う。

 「このへん」(引用者註:『ライトノベル』とその周辺ジャンルのエンターテインメント)の世界の男子主人公たちとその書き手があまりにナイーブで傷つきやすいのにいささ

かゲンナリしかけていた。なにしろ彼らの煮え切らない態度に苛立って「情けない」「歯を食いしばれ」「それでもオトコか」等々のニュアンスのことをちょっとでも言おうも

のなら「勘弁してくださいよ~、ぼくたち、こうして、死なないで、ただ生きているだけで、もうホントせいいっぱいなんですから~」みたいな答えがかえってくるのだ。(中

略)彼らが「萌え」る少女たちはというと、制服のまま(あるいはスクール水着のまま)世界を救う戦いを戦っているというのに! 『イリヤの空、UFOの夏』も、『最終兵 器彼女』も、『ほしのこえ』もみんなそうだ。

 しかし、このような批判もまた、多くのセカイ系においては「織り込み済み」のものでしかない。たとえば久美が批判する『イリヤ』において実は、浅羽は、歯を食いしばり、

小便を漏らしながら、戦闘のたびに傷つくイリヤを軍の大人たちから救出しようとし──失敗する。『イリヤ』が受け入れられた理由は、美少女に守ってもらえるから、ではなく、 美少女を守りたいのに、守られてしまうから、なのだ。

 さらに言えば、すでに確認したとおり、久美が批判する『イリヤ』は、そうした構造にむしろ批判的な視点を持って書かれた作品である。しかし、そのような小説も、『最終兵

器彼女』と一緒くたにセカイ系と名指され批判されてしまう。逆に言えば、著者の意図や自覚とは無関係に、セカイ系は、批判をすでに織り込んだ形で読者に受容されている、と 説明できないだろうか。

『イリヤ』などの諸作品の読者には、強いヒーローではなく、弱い主体に同一化したいという、いささか奇妙な欲望を指摘できる。世界の全体像をつかめず狭い認識のなかに閉じ

こもる主体、あるいは女の子を守るために闘うべきなのに、それができない弱い主体に同一化したいという欲望、あるいはそんな自分を誰かに否定されることで反省したいという

欲望。だからこそ久美の批判は、『イリヤ』の作中における「なによ自分だけが加奈ちゃんの理解者みたいな顔して、あの子にぜんぶおっかぶせて誰よりも平気な顔をしてるのは

あんたの方じゃない!」というセリフと同様に、読み手に反省をせまる。しかし読み手はまさに、それを求めて作品を消費しているのだ。セカイ系が、批判によってこそ隆盛した のは、このような構造があるからだと考えられる。

自己反省への批判──レイプ・ファンタジー  もう一度、『ゼロ年代の想像力』に戻ろう。

 本書のなかで、宇野がセカイ系に対して行う批判は2種類ある。ひとつには既に確認したように、セカイ系が古い想像力であるという点、そしてもう一点は、それがレイプ・ ファンタジーだというものである。それは、前述の反省への欲望を批判したものだと言える。 『ゼロ年代の想像力』における宇野のたとえによれば、それは、

  援助交際で女子高生とセックスしたあとに、その後ろめたさを解消するために少女に優しく「こんなことをしていちゃいけないよ」と諭す男性は「繊細で文化的」だと言える

だろうか。彼らが「こんなことをしていちゃいけないよ」と説教するのは、むしろ心理的な抵抗を排除し、安心して少女性を所有するためである。なぜなら彼らは援助交際(= 萌え)という所有回路を放棄することは決して選ばないのだから。

 ということになる。つまりは「本当は女の子になんて戦ってほしくないけど」とか「本当は女の子を傷つけたくないけど」といった反省を間に挟み、にもかかわらず、仕方なく 「戦ってもらう」、「セックスする」ことで、罪悪感や責任感を軽減し、欲望を強化する構造のことだと思えばいい。

 宇野は、レイプ・ファンタジーといういささかセンセーショナルな語句を用いているが、たとえば、男女の性関係を離れても、これは古今東西の物語に普遍的な構造である。

『機動戦士ガンダム』などのロボットアニメを見る視聴者は、端的に言えばロボット同士の戦争を楽しんでいる。にもかかわらず、そのことは明言されず、むしろ主人公たちは、

反戦や平和主義を叫んで戦う。このような構造にも「戦争は悪である」という反省の身振りを挟むことで、むしろ安心して戦争を娯楽として楽しめるようになるという、レイプ・ ファンタジーの構造を見いだすことができるだろう。

終わらない自己反省批判

 宇野の批判は、オタクたちの自己反省という欲望を、正確に捉えたものと言えるだろう。しかし、この正しさは言説の内容ではなく、その話者の立ち位置によって担保されるも のであり、外をめぐる終わらないメタゲームへと繫がる可能性を孕んでいる。

 どういうことか。前述の宇野の批判は、『美少女ゲームの臨界点』(のちに『ゲーム的リアリズムの誕生』に所収)に寄せられた東の『AIR』論、「萌えの手前、不能性にと どまること」への批判として述べられている。しかし、この論文では、

  美少女ゲームの二層的な構造は、キャラクター・レベルで「責任」を突きつける繊細な物語をプレイヤー・レベルでの無責任な振る舞いを可能にする口実として機能させてし まうからである。

 と、まさに東自身が『AIR』という作品読解によって、宇野とほとんど同じロジックでレイプ・ファンタジー批判をしているのである。

 かみ砕けば、東は、美少女ゲームにおける自己反省の身振り(少女を助けるために仕方なくセックスする)を批判するため、プレイヤーを一切、状況に介入できない視点に置

き、少女が傷ついていく様を見せつけたのだ、と論ずる。しかし宇野は、それ自体が少女を所有する自己反省の身振りにすぎない、と批判しているのである。

 言ってみれば、この批判は「[〈《マチズモ》を批判する美少女ゲーム〉を批判する『AIR』=東浩紀]を批判する宇野常寛」という複雑な入れ子構造を成している。おそら

く、さらなる入れ子を作ることも可能だろう。東浩紀を批判することによって、しかしとにかく美少女ゲームをプレイした=援助交際をした、という動かしがたい事実を宇野は肯 定してしまう、など。  問題は、このような批判は常に外部を必要としてしまう点だ。

 東の『AIR』論が美少女ゲームを批判するためにプレイヤー視点というゲームの外に立ち、さらに宇野は美少女を消費する行為の外に立つ。宇野が『ゼロ年代の想像力』にお

いて、しばしば唐突に美少女ゲームとテレビドラマなど、本来、異なる文脈の作品を対比するのは、このような運動の要請からだと理解できる。

 しかし、このような言説は、その内実ではなく、どれだけ外に立てているかによって正しさが担保されるため、作品読解の内実を離れた形式的な立ち位置ゲーム、メタ・ゲーム に陥る可能性がある。

後ろめたさの原因としての『エヴァ』

 そもそも自己反省批判は、反省する自分を反省する自分を反省する──という終わらない運動を呼び起こす。その運動から逃れるためには、ライトノベルや美少女ゲームなど、コ ンテンツを消費すること自体をやめるほかなくなる。これはいささか本末転倒だと言える。

 宇野の批判の根拠にあるのは、オタクたちの反省への欲望にある。とすると、なぜ、セカイ系は、美少女ゲームは、あるいは、ゼロ年代のオタクたちは、そもそもコンテンツ を、特に美少女を消費することに、過剰なまでに罪悪感を抱き、反省したがっているのか?という問いが生まれてくる。

 二次元の美少女など、架空の存在にすぎないのだから、つべこべ言わずに萌えていればレイプ・ファンタジーなどと批判されずに済むのに、なぜ、彼らの自意識はそんなに反省 を求めるのか?

 その原因はやはり『エヴァ』に求めざるを得ない。セカイ系とは、ポスト・エヴァの作品群であり、しかもオタクの文学と化した後半の想像力を受け継いだものだと何度も述べ た。

 しかし、これは原理的におかしい。というのも『エヴァ』にハマった筆者のようなオタクたちは、「シンジ君は僕なんです!」と叫んだ。しかし、その『エヴァ』において、庵

野が発したメッセージとは何か。「キモチワルイ」というアスカの拒絶の言葉ではなかったか。外に出よ! というものではなかったか。にもかかわらず「シンジ君は僕」だった はずの「僕」たちはなぜ、オタク文化の内側で、セカイ系なるポスト・エヴァ作品を消費しているのか。

 アスカに拒絶され、アニメの外に出なければならなかったはずなのに、未だ内にこもり、美少女に耽溺する自分という罪悪感こそが、まるで原罪のように自己反省の身振りを呼 び、セカイ系という内省と自己言及の物語を生んだ、と考えることができる。

『エヴァ』と『ナデシコ』──外に出ること、内に止まり続けること

 いささか、自己反省への考察が長くなりすぎているかもしれない。しかし、こうした「自己反省による欲望強化」と「批判のための外部」という構造は、おそらく今後立ち現れ

年と少し時間を戻すが、そうした外部へ出よ! という批判への応答として、1本のアニメを紹介したい。『新世紀エヴァンゲリオン』の直後に放映された1996

てくるセカイ系以外の文化にも見いだされるはずである。  そこで、

年の『機動戦艦ナデシコ』である。

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年の『機動戦艦ナデシコ』である。

  木星蜥蜴と呼ばれる謎の存在と戦う少年パイロット、テンカワ・アキトを描いたロボットアニメだが、この少年は「熱血ロボ ゲキ・ガンガー3」という劇中劇のロボットアニメ

の大ファンとして設定されている。そして、物語が進むと、無人兵器や異星人と思われていた、木星蜥蜴とは、ゆえあって木星に追放された地球人の末裔であり、主人公の愛する

アニメ「ゲキ・ガンガー3」が彼らの国で国民的な作品となっていること、地球侵略のためのプロパガンダとして使われていることが明らかになる。

年代後半のオタク文化を取

 自分の見ていたアニメが侵略のイデオロギーを肯定するものと知り、以来、「ゲキ・ガンガー3」というアニメをどう評価するかが、主人公の根本的な苦悩、そして作中の主要 な対立点となっていく。

 もちろん、これは不毛で空虚な光景だ。そんな様子は、作中でも、基本的にはコミカルなギャグとして描かれる。しかし、見方を変えれば、これは

だった我々も、半分だけ、肯定されていいと思うのだ。

セカイ系の拡散  またも、筆者独自の見解が長引いてしまった。今一度、セカイ系とは何かという本書の主題に戻ろう。

 宇野は『ゼロ年代の想像力』のなかで、セカイ系=ポスト・エヴァンゲリオン症候群という定義を一歩おしすすめ、セカイ系、決断主義が、それぞれ直接に

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年代後半、ゼロ年

 そのような自意識の運動の果てに、これまで見てきたようなセカイ系という文化が生まれてきたのなら、アスカに拒絶され、オタクをやめろと言われ、それでもオタクのまま

生まれてくるのではないか。

 そのような自意識、自己批判によって自己肯定する自己批判をする自己肯定をする自己批判をする自己肯定をする自己批判をする自己──という懊悩があればこそ、作品や批評も

 いくら批判されようと、人間はそう簡単に自意識を捨てることも、自己正当化をやめることも、自己反省をやめることもできない。

アルな戦争はカッコイイのである。

 しかしながら、それでは物語から葛藤や内省という重要な要素を奪い、あるいは物語自体がなくなってしまうように思える。それは、やっぱり、残念だ。アスカは萌えるし、リ

はロボットアニメを見るのをやめればいい。

 自己批判がいけないというのなら、己の欲望のまま美少女に萌えればいい。あるいは美少女ゲームをやめればいい。戦争批判などやめて、思う存分戦争を楽しめばいい。あるい

 自己反省の身振りへの批判に答えるのは、ある意味簡単だ。

セカイ系を支えたオタクたちは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジではなく『機動戦艦ナデシコ』のテンカワ・アキトとしての生を選んだのだろう。

 無論、このような読解とて、すぐさま、おまえはそうやってアニメを見ている自分を肯定したいだけだろう、という反論が返ってくるだろう。しかし、結局、筆者は、あるいは

オタクは外になんて出なくていいし、そもそも出られない。アニメを見て成長すればいいのだ、という悲壮な覚悟が漂っているように感じる。

 このセリフに象徴されるように『ナデシコ』は徹底的に外部を描かない。みな、つまらないアニメのことで悩んだり生きたり死んだりし、そしてまたアニメによって救われる。

け、というメッセージが代入されている。

 本来、アニメではなく現実を見ろ、というお説教が入るべきところに、おまえが悩むのは『マジンガーZ』しか見ていなかったからだ、ちゃんと『機動戦士ガンダム』も見てお

  君はもっといろいろなアニメを見ておくべきだった。僕の見たアニメでは、敵にも戦う理由が描かれていたよ。

 特に、苦悩する主人公にライバルが語るセリフが衝撃的だ。

刻な人間関係の対立まで発生していたのだから。

り巻く状況の適切な戯画である。なにしろ、当時のオタクたちは『エヴァ』という単なるアニメに、人生を変えられるほど熱狂し、終盤の是非をめぐっては、すでに見たように深

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 宇野は『ゼロ年代の想像力』のなかで、セカイ系=ポスト・エヴァンゲリオン症候群という定義を一歩おしすすめ、セカイ系、決断主義が、それぞれ直接に

 たとえば社会学者として

年代後半、ゼロ年

年代の日本の論壇をリードしていた宮台真司も、2006年8月、「〈世界〉のアレゴリカルな交響があるとする繊細な感性をアニメ版『時をかける

代の現代日本社会を反映したものと論じた。やや遡るが、その1年前の2006年ほどから、セカイ系は、オタク文化から、文芸へ、社会批評へと越境を果たしている。

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行っている。  また、中条省平も『AERA』2006年

える。

月2日号で、『DEATH NOTE』をセカイ系の典型に挙げ、またセカイ系で排除される社会を政治と言い換え、

 と指摘し、「セカイ系の流行には、オウム的な思想風土に通じる危険がある」と警鐘を鳴らしている。 デジタル

キータッチ

 また『SFマガジン』で宇野の連載が始まる直前には『群像』2007年6月号で、評論家・橋本勝也が「具体的 な指触り 」で第

 しかしともあれ、セカイ系の意味は、オタク文化から広く拡散していく傾向を示す。

定するものと読まれうる。そんな二重性を、『エヴァ』やセカイ系と呼ばれた作品の一部は内包している、と言えるかもしれない。

回群像新人文学賞優秀賞を受賞しデビュー。

 文学作品としては内省的、引きこもり的な青少年の自意識を描きながら、そのことでかえってオウム真理教のような、あるいは戦前の青年将校的な視野狭窄的なテロリズムを肯

い。

きこもり的と批判され、しかし一方、ここで見たようにオウム真理教的なテロリズムを肯定するものと批判される。ひとつの作品がまったく正反対の批判を受けていると言ってい

品は無差別テロ事件を起こしたオウム真理教との類似において批判された。セカイ系と名指された作品においても、たとえば『イリヤ』は、一方では久美沙織などの例のように引

『エヴァ』という作品は、ロボットに乗って戦うことを拒否しようとする碇シンジの内向的な姿勢が(特にオタクたち自身から)しばしば批判の対象となり、しかし、一方で同作

物語を「セカイ系」と呼びますが、「右翼」「左翼」に代表されるイデオロギーはもとよりセカイ系だったのかもしれません。

の革命だのといった偉大な使命へ自分を委ねている自覚で乗り越えた気になる。「新世紀エヴァンゲリオン」のヒット以来、自分の危機と世界全体の危機とがシンクロしてゆく

  自分個人の生きにくさを世の中全体がゆがんでいるせいにして、世の中が変われば幸せでおもしろい日々が私にも来ると信じる。自分自身の矮小さ脆弱さを、民族だの階級だ

 また一方で、2006年に刊行された『右翼と左翼』のなかで浅羽通明は次のように述べる。

 いずれにせよ、これらの論者は、一様にセカイ系をオウムと結びつけて批判している。

同論文は『イリヤ』を、オウム真理教と重ね合わせたうえで「セカイ系」として批判し、その乗り越えとして村上春樹『海辺のカフカ』、『アフターダーク』を読む。

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  そういう意味で、『デスノート』を喜ぶ現代の若者には、確実に政治忌避のムードがある。「世の中を地道に変えていくなんてできっこない」とあきらめているムードともい

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009年3月末に開かれた学会〝Association for Asian Studies〟に東らとともに参加し、宇野のセカイ系と決断主義という構図を援用しつつ日本のサブカルチャー史についての講演を

 として、ジブリアニメ『ゲド戦記』をセカイ系と位置づけた上でオウム真理教と並べ、細田守の劇場映画『時をかける少女』を、賞賛している。宮台はその後、米国シカゴで2

  自己肯定を巡る葛藤が克服され「自分の謎」が解消するや、「世界の謎」はどうでもよくなる。こうした「世界=自分」であるような世界をセカイと呼ぶ。

少女』に、〈世界〉に無関心であるがゆえの「セカイ系」特有の出鱈目をアニメ版『ゲド戦記』に見る」と題した論文で、

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  社会学者・鈴木謙介も2007年5月に刊行された『ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか』のなかで、このようなセカイ系の社会批評における使われ方を、次のよ うにまとめる。

  すなわちここで批判されているセカイ系は、個人にとっての物語であり、その出自となったアニメや小説とは、さしあたり関係がない。浅羽(引用者註:通明)は、物質的な

欠乏が充足され、個人の内面の充実が前景化したことを、仲正(引用者註:昌樹)は、第四章で述べたような後期近代、すなわち「ポストモダン的状況」を、そこに見いだして

いる。それぞれの強調する論点は異なるが、いずれも共通して、「外から見れば狭い世界の中の出来事にこだわっているだけなのに、中にいる人にはそのことが気付けていな い」という点に注目しているのである。

世紀の哲学者ライプニッツ、そしてまたシリコンバレー企

 2008年に宇野の『ゼロ年代の想像力』が単行本として刊行されると、2009年7月には限界小説研究会から、宇野の「時代認識に対する異議」として『社会は存在しな い』という評論集が上梓された。本書においては、アニメ、マンガ、ライトノベルのみならず、演劇や映画、あるいは 業などが、セカイ系をキーワードに分析されている。

セカイ系とメディアミックスの相性の悪さ

王道の成長物語、バトルものへと回帰し、あるいは『化物語』という美少女ゲームテイストあふれる伝奇ラブコメディは、アニメ化もされ大ヒットを飛ばした。

 実際、佐藤友哉などは自意識、私を書くためのジャンル(と言うと語弊があるかもしれないが)である純文学の場に活動を移している。一方、西尾維新の「戯言」シリーズは、

るのだ。

作を見たいと思わせるものでもないだろう。『エヴァ』は衝撃的な作品だったが、やはり、人々は美少女に萌え、ロボットに燃え、トリックに驚くために、コンテンツを買ってい

 しかし、ロボットアニメのなかで、美少女ゲームのなかで、ミステリのなかで、突然、一人語りを始めました! というのは、たとえ最初の数人は面白くとも、そう何本も類似

に歓迎された。

感動できたように、『エヴァ』以降、アニメやゲーム、ライトノベルのなかでオタクの自意識の問題を赤裸々に展開すること自体が、何か新鮮なものとして、(特に)若い受け手

『EOE』では、アニメで自意識を語るということそのものが新鮮な体験だったのだろう。かつて、最初にアニメを見た人たちが、スクリーンのなかで絵が動くということ自体に

に明らかなように、しばしば娯楽の本分から逸脱する。言ってみれば、出来損ないのエンターテインメントとしてしか、成立しないという宿命を帯びている。

り、あるいは女の子を救おうという意図を挫折させてしまう点である。セカイ系作品は、アニメやマンガといったエンターテインメントのなかで自意識を語ろうとし、『EOE』

 ひとつは、ごく単純に、一部のセカイ系が「女の子を守るために戦う」「敵を倒して成長する」といった展開を拒否し、主人公を戦闘の蚊帳の外においたり、成長を拒絶した

 そこで、筆者なりにセカイ系終焉の理由を探ってみたい。

 東浩紀にしろ、宇野常寛にしろ、あるいは筆者にせよ、オタク文化におけるセカイ系のブームは収束を迎えたというのが、共通する見解である。

 論壇からオタク文化に視点を戻そう。

セカイ系はなぜ終わったか?

なったとまとめることはできるだろう。

し、社会を排除した個人と世界の直結という構造によって定義されるようになり、そしてゼロ年代も後半になると、その構造をもって、広く日本社会全体の分析に使われるように

 2002年にぷるにえによって「エヴァっぽい(=一人語りが激しい)」という歴史的、文脈的に定義されたセカイ系が、2004年に至って、そのような歴史性や文脈を排除

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セカイ系とメディアミックスの相性の悪さ

巻、

巻も続くような作品が珍しくないが、たとえば『ほしのこえ』はわずか

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 そもそも話を矮小化するようだが、セカイ系は、商売に向かない。  現在のマンガやライトノベルにあっては

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たって繰り返された)もまたそれを印象づけるものだったかもしれない。

分の短編、『最終兵器彼女』も全7巻、『イリヤ』は

 あるいは2009年のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」事件(時間の繰り返しに巻き込まれた原作短編をアニメ化するにあたり、ほとんど同じ話が8話にわ

『クイックセーブ&ロード』、『集団美少女戦士キューティ・パンツァー』などの例が挙げられる。

できるかもしれない。いずれにせよ、『ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』、『サクラダリセット CAT, GHOST and REVOLUTION SUNDAY』、『その日彼は死なずにすむか?』、

では近年、とりわけ新人作家のデビュー作のなかに、このテーマを数多く発見できる。もしかしたら『ゲーム的リアリズムの誕生』などの評論への実作からの応答と捉えることも

 その一方で、しばしばセカイ系とも名指されたループものや平行世界ものは、オタク文化のなかで完全にサブジャンルのひとつとして定着した感がある。たとえばライトノベル

な事態は見られなくなったからだ。

もしれない。しかし一方でゼロ年代中盤に見られたような、一見するとセカイ系的資質を持たないように見える作家までもが、セカイ系に言及し、セカイ系作品を描くというよう

家たちは、それぞれ『リトルバスターズ!』、『秒速5センチメートル』、『きみのカケラ』など、自身の作風を追究し続けており、そうした作品をセカイ系と呼ぶことも可能か

 セカイ系という運動、あるいは重力は、2010年代を迎えた現在、ほとんど消滅したといっていい。麻枝准、新海誠、高橋しんなど、ゼロ年代初頭にセカイ系と名指された作

セカイ系のサブジャンル化──自意識なきセカイ系『スマガ』

 結局のところ、それがセカイ系の勃興と終焉をめぐる解答ではないだろうか。

識の問題を語ることがエンターテインメントであると認識される時代が、一瞬だけあり、それが終わった。

 逆に言えば、これほどまでに商品として欠点を抱えたセカイ系が、ゼロ年代のごく一時期とはいえ、大きく盛り上がったことの方が奇跡とも思える。オタク文化のなかで、自意

系から物語消費への移行と捉えることができ、セカイ系の商売のしにくさを逆説的に証明してしまっているようにも思える。

ダム』シリーズのように、作中に登場するロボットのバリエーションを模型展開したり、あるいは作品の軍事設定、SF設定の詳細な解説書などを刊行するなどしている。セカイ

を続けている平行世界に迷い込んでしまうというループものの系譜に位置する作品だった。同作は現在でも外伝などが作られているが、ループものの要素は後退し『機動戦士ガン

 たとえば美少女ゲーム『マブラヴ』、『マブラヴ オルタネイティヴ』は、平和な世界で学園ラブコメな日々を送っていた主人公が、人類が巨大ロボットで謎の宇宙生物と戦争

も考えられない。

るのであり、『機動戦士ガンダム』の消費者が、同一世界を舞台にした『機動戦士Zガンダム』や『機動戦士ガンダム0080』に手を伸ばすように、続篇や外伝に興味を示すと

 また物語消費という手法を排除している点は、続篇や関連商品の展開の支障となる。『ほしのこえ』を例に取れば、視聴者はノボルとミカコの恋愛物語として同作を受容してい

メ版では原作の会話劇が、独特の映像美とともに忠実に再現され、好評を博した)。

において、ひとつのエポックとなったと論じられる。西尾維新の小説『化物語』も、キャラクター同士のかけあいを売りにした非映像的な作品だったが、シャフト制作によるアニ

(ただし、この点は難しかった、と過去形にすべきかもしれない。京都アニメーションによるアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の成功は、ライトノベル的な一人称をアニメ化する手法

ディアミックス展開との相性があまりよくない。小説作品においては、主人公の一人称による語りが作品の大きな魅力だったりすることも、映像化を難しくする要素のひとつだ

 また『最終兵器彼女』や『イリヤ』などに顕著だが、これらの作品は、戦闘シーンという映像的に映えるシーンをあえて作品から排除してしまっている点で、アニメ化などのメ

言えるかもしれない。

が倒されたらまた強い敵を」といったような引き延ばし、シリーズの長期化には限度がある。『涼宮ハルヒ』シリーズの刊行が第9巻を最後に長期中断しているのも、その証左と

全4巻、『All YOU NEED IS KILL』は全1巻、『殺×愛』でも全8巻、みな比較的短い作品である。難病ものや遠距離恋愛など、明確な構造によって支えられた作品が多く「強い敵

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たって繰り返された)もまたそれを印象づけるものだったかもしれない。 ゾディアツク

 そして、ゼロ年代後半のセカイ系を象徴する作品として挙げたいのが、2008年に発売された美少女ゲーム『スマガ』である。

 うんこマンと名づけられてしまった記憶喪失の少年を主人公にしたループもので、 悪魔 という怪物と戦い、死んでいく運命にある戦闘美少女たちを救うため、何度も同じ時間を

繰り返す姿を描く。作中、「セカイ」、「セカイ観」など、世界という語がすべてカタカナで記されているように、明らかにセカイ系を意識した作品だ。

 そのメインルートは、3回、同じ時間軸を繰り返すことでハッピーエンドへと至る。秀逸なのは、この作品が、ここまでなぞってきたようなセカイ系の変化を作品に内在してい る点である。

・1度目のルートでは、主人公は、悪魔という怪物と戦い、命を捧げる運命にある美少女と出会って恋に落ち、やがて彼女は戦いの中で命を落とす。 (ゼロ年代序盤、『最終兵器彼女』、『イリヤ』、『ほしのこえ』的セカイ系)

・2度目のルートでは、もう一度、最初の時間に戻り、恋人と再会するも、彼女は彼と愛し合った記憶を失っており、主人公はふたりの認識のズレに苦しめられ、最終的には、永

CHANNEL』的、ループものとしての的セカイ系)

遠に繰り返すループのなかに閉じこめられる。

(ゼロ年代中盤、『CROSS

 いずれも物語は悲劇的な結末を迎えてしまう。物語にハッピーエンドがもたらされるには3度目のルートを待たなければならない。その最終ルートでは、いささかご都合主義的

な展開に助けられながらも、主人公はみずから率先して戦い、世界を見事に救う。そこではおよそ近代的な自我=自意識を持たない美少女が重要な役割を果たしている。また、こ

の3度目のルートでは、『トップをねらえ!』から数多くの引用が行われている。この意図は明確だろう。『新世紀エヴァンゲリオン』がもたらしたセカイ系を、『エヴァ』以前 の作品である『トップをねらえ!』に回帰することによって打破しようとしたと考えられる。

『スマガ』の主人公であるうんこマンは、『エヴァ』の碇シンジのような内省的な少年ではなく「戯言」シリーズのいーちゃんや『DEATH NOTE』の夜神月のような倫理感の欠如

した人物でもない。むしろ、熱血マンガの主人公のような前向きで健全な人物として描かれる。あえてセカイ系をトレースした1周目、2周目においては、さすがに内省し、その

懊悩がモノローグで語られるのだが、そもそもうんこマンという小学生レベルのネーミングが、あらゆる一人語りをハズしてしまう。

『スマガ』はセカイ系という構造そのものを熱血主人公が強引に打ち破る物語である。セカイ系が定義され、構造化され、ついにエンターテインメントの素材となったという意味 で、『スマガ』は、おそらくセカイ系を意識して作られた物語のなかでももっとも遠く離れた場所に着地した作品だろう。

 セカイ系の形式と自意識の決別は、先に挙げたライトノベル作品全般にも言えるものだ。セカイ系は「エヴァっぽく=一人語りが激しく」なくなりつつある。

セカイ系からの脱却を目指す『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』

 そのようなゼロ年代の、セカイ系の形式化という光景の中で『エヴァ』がセカイ系化するという、こちらも、いささか語義矛盾的な光景が起きている。

 2007年に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下、『新劇場版』)の第1作『序』が封切られ大ヒットを記録した。基本的には、前作のリメイクである『新劇場版』だが、要

所要所で展開に変更が加えられ、また同作が、前作の続き、すなわちループものとしての繰り返しの物語であると匂わせるセリフが頻出している。

 同映画は全4部構想であり、2010年現在、未だ第2作である『破』が公開されたまでにすぎない。そのため、本当に『新劇場版』がループものかどうかの確証は未だ得るこ

とができない。もし、それが真だとすれば、『エヴァ』から始まったセカイ系というムーブメント(騒動?)の、一種の到達点とも言えるループものの流行が、めぐりめぐって本

とができない。もし、それが真だとすれば、『エヴァ』から始まったセカイ系というムーブメント(騒動?)の、一種の到達点とも言えるループものの流行が、めぐりめぐって本 家にまで及ぶ、というのは、なかなか興味深い事態であると言える。

 ただ一方で、『新劇場版』には、本来の意味でのセカイ系、つまり「エヴァっぽさ」や「自意識」から逃れようとする意図が感じられるのも事実である。

 たとえば原作『エヴァ』では碇シンジの父、碇ゲンドウ、あるいは同居人の葛城ミサトなど、主人公にごく近しい人間以外の大人たちが描かれなかった。謎の敵、使徒と戦うた

めに作られた街でありながら、そこでどのような人が暮らしているのか、あるいはエヴァを運用するNERVとはどんな組織であったのかは、ほとんどわからないままだった。

社会を感じさせるものとなっている。

 一方、『新劇場版』では使徒を倒すための作戦を立てる者たちや、あるいは、必要な兵器、機材の設置に励む人々、そしてまた庵野秀明の独特の美意識によって描かれる高層ビ

ル街を行き来する人々など、きわめて多くの群衆、群像、風景が描かれ、観客に第3新東京市という街の生活

」と叫び、ヒロイン綾波レイを救おうと懸命にもがく。

 また、何より、主人公シンジの造形も大分、前向きなものとなり、特に、第2作『破』においては、周囲の人間たちと積極的にコミュニケーションをとり、使徒との戦いにおい ては、ほとんど熱血主人公のように「違う! 綾波は綾波しかいない!」、「だから今、助ける

西冷戦の想像力で描かれていた。米ソどちらかの首脳が核のボタンを押してしまえば、世界は明日にも終わるかもしれない、という た(だからその敵は使徒をはじめとする正体不明で観念的な「敵」となる)のがセカイ系だったと言えるかもしれない。

年代の皮膚感覚を「冷戦構造」抜きに再現し

号に掲載され

テロ以降、そのような戦争のイメージは大きく変化した。非対称型の戦争、あるいはもっと直接的に「対テロ戦争」と呼ばれるような、日常に潜むテロリストと

の「戦い」が、戦争のイメージを更新していく。そのような戦争のイメージの変化と、オタク文化の流行の変遷を論じて、東浩紀は、メールマガジン『波状言論』

 しかし、9・

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『最終兵器彼女』に見られた奇妙な戦争に明らかなように、冷戦構造が崩壊し、ソ連という仮想敵が消失してなお、これらの作品で描かれた戦争は第二次世界大戦的な総力戦や東

 まず、セカイ系の重要なイメージの源泉であった戦争について。

対テロ戦争文学としての「現代学園異能」

ている。そうしたなかでの筆者の一視点からではあるが、以下、セカイ系と関係が深いと思われる領域を中心に概観してみたい。

 では、セカイ系の後のオタク文化はどのようになっているのか? 無論、現在のオタク市場は拡大し、もはや個人では到底その全体像を把握しきれないほどに多様化してしまっ

・オタク文化のなかでは、セカイ系の流行は終わり、基本的には、ひとつのサブジャンルとして定着した。

いう言葉が用いられるようになった。

・セカイ系は、宇野常寛の登場により、オタク文化ではなく論壇における主要なトピックとなり、またそれと平行するように、オタク文化以外の、社会批評などでもでセカイ系と

 ひとまず2007年以降のセカイ系は、次の2点にまとめられる。

ポスト・セカイ系のオタク文化

ターテインメントから逸脱しはじめるのは、後半に至ってのことである。『序』『破』はまだ折り返し地点であり、今後の展開次第だが、いずれにせよ、楽しみに待ちたい。

 この点をもって(賛否両論だが)多くの論者が、原作からの変化を指摘している。もちろん、第1章で確認したように、『エヴァ』が急激に自意識の問題へとシフトし、エン

!!

る。

た新海誠、西島大介との鼎談「セカイから、もっと遠くへ」後編(『コンテンツの思想 マンガ・アニメ・ライトノベル』所収)のなかで、奈須きのこ作品を次のように論じてい

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11

  どこに怪物がいるかもしれない、隣人がいつ怪物に変わるかもしれない、そしてそれは退治すべきだという思想です。怪物をテロリストや少年犯罪やひきこもりに置き換えれ

ば、その感覚はまさに僕たちの社会状況そのもので、だからこそ彼の作品は支持されるんだと思う。けれども、それは、裏返せば新種の戦争文学ということですよね。

 実際、ライトノベルでも、『イリヤの空、UFOの夏』が単発のヒットとして終わった一方、奈須きのこからの影響を感じさせるライトノベル『灼眼のシャナ』が大ヒットし、

多くのフォロワーを生んだ。同作は、平凡な高校生・坂井悠二が、人間の魂を食らう怪物「紅世の徒」と戦う「フレイムヘイズ」の美少女シャナと出会い、世界の裏側で行われて きた闘争に巻き込まれていく、という物語だ。

 この「平凡な少年が」、「偶然、戦う美少女と出会い」、「日常の裏で行われていた戦いに参加する」というパターンは、いまやライトノベルの基本フォーマットになっている

と言える。SF風味や伝奇風味などガジェットの違いはあれど、同様の形式を採用した作品が多数送り出され「現代学園異能」と呼ばれている。

テロリストとしてのガンダム、カウンター・テロの少年少女たち

 一方、そのような隠喩としてではなく、もっと直接的にテロリズムを描いた作品も増えている。2002年に放送されたアニメ『機動戦士ガンダムSEED』は、いわばゼロ年

代版の『機動戦士ガンダム』(ファースト・ガンダム)を目指した作品と言える。第一作の地球政府対宇宙移民者(連邦軍対ジオン軍)という構図を連合軍VS. ザフトという形でそ

のまま導入し、当初は、ファースト・ガンダムのストーリーをリメイクするかのように進んでいく。ところがアムロにあたる少年、キラ・ヤマトは、途中で両軍のどちらにも正義

がないと確信し、ザフトの新型のロボットを奪取、自身の意志で両軍のどちらとも戦う、テロリスト的なヒーローとなってしまう。

 本作は、旧来のガンダム・ファンからの評価は芳しくなかったものの、イラク戦争開戦などで揺れた当時の日本の空気を敏感に写し取り、とりわけオタク第三世代よりさらに若 い世代から圧倒的支持を得た。

 その後も、アメリカ合衆国の代わりに神聖ブリタニア帝国と呼ばれる国家が成立した世界で、同国に占領された日本を舞台とし、廃王子ルルーシュが、武装集団「黒の騎士団」

』など、相次いで、テロリストを主人公にしたロボットものを送り出している。

を率いて、日本独立のための闘争を行う『コードギアス 反逆のルルーシュ』、さらに私設武装組織ソレスタルビーイングに所属する4人のガンダム・パイロットが戦争根絶を名 目に、各地の紛争に武力介入する『機動戦士ガンダム

を描く。アメリカのTVドラマ『

けい かく

とう しょう じ

が痛みを感じることがなくなり、戦場という究極の現実からもリアリティが失われてしまった様を、ひとりの内省的な青年兵士の一人称で描いた傑作である。

 そして昨年、惜しくも亡くなったSF作家・伊藤計 劃 のデビュー作『虐殺器官』もまた、アメリカの特殊部隊員を主人公にした対テロ戦争SFだ。認知科学の発達により、兵士

れるのではないか。

ボットに乗って戦っていく物語だ。読者の入れ替わりも早く、新作、新シリーズに注目されるなかで1位を獲得した背景には、作品と現実の世界情勢が呼応したという点も挙げら

に新しい。1998年にスタートした長寿シリーズで、アフガン帰りの傭兵主人公が、テロリストに狙われたヒロインを守るため、高校生として学園に潜入、襲いかかる敵とロ

 また読者の人気投票をもとに毎年ランキングを発表している『このライトノベルがすごい!2008』で、賀 東 招 二 の『フルメタル・パニック!』が1位を獲得したのも記憶



-TWENTY FOUR-』のライトノベル版ともいえる内容で、この物語は、対テロ戦争の他、少子高齢化や児童労働、民族差別、格差社会など、現

ての福祉費の削減によって、障害児に労働の権利が認められた近未来のオーストリアで、障害を補う武装義肢と引き替えに対テロ特殊部隊に所属することとなった特甲児童の活躍

 一方で、カウンター・テロを描いたものも増えている。特筆すべきは『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁が放つ『シュピーゲル』シリーズだろう。少子高齢化の帰結とし

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代的な問題の数々を埋め込んだ作品である。現在は完結編となる『テスタメントシュピーゲル』が刊行中。

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群像劇──アーバンファンタジーへの回帰 ブラックスミス

『ブギーポップは笑わない』以来、しばらく低調だった異世界ファンタジーの再興も特筆すべきポイントである。2004年からスタートした大ヒット作『ゼロの使い魔』をはじ

め、『鋼殻のレギオス』、『聖剣の刀鍛冶 』などが相次いでアニメ化された。しかし、もう一点の潮流として、実在する都市空間を舞台にした、青春群像劇という潮流を挙げてお きたい。

 現代物の流行と、セカイ系から前述の「現代学園異能」へと至る流れを準備した『ブギーポップは笑わない』だが、同作の特徴は、等身大の青少年たちの郊外を舞台にした群像

劇であった点も挙げられる。『イリヤ』など、ライトノベルにおける多くの後続作は、基本的に視点人物を少年一人に絞り、禁酒法時代を舞台にしたマフィアたちの群像劇『バッ カーノ!』の成田良悟などの例外を除いて、その手法はほとんど継承されてこなかったと言っていい。

ゴー ニイ

ヨン

人の少年少女たちが、様々な思惑をもって交

 しかし、ゼロ年代後半になって、にわかに都市伝説と群像劇という『ブギーポップ』的な意匠が復活しつつある。たとえばゲームでは『CHAOS;HEAD』や『Steins;Gate』、ライ イチ

トノベルで近年とりわけ話題を集めたのは、ひとりの少年の「遺書」が自殺前に誤送信されたことから、大晦日の首都圏を舞台に、

ら池袋を舞台に描いてきた『デュラララ

』も、2010年にアニメ化された。

『ブギーポップ』が匿名的な架空の郊外を舞台にしていたのに対し、前述の作品たちは、渋谷、秋葉原、東京全域など、実在の都市を舞台にしている。前述の成田が2004年か

e』の奈須きのこも参加している。

差しあう新城カズマの『1 5 ×2 4 』。Wiiで発表されたゲーム『428~封鎖された渋谷で~』も挙げていいかもしれない。渋谷を舞台にした群像劇で『月姫』、『Fat

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の食べ方についてたわいもない会話を繰り広げるだけだし、あるいは『けいおん



かわ

』についても、美少女バンドを描いた作品だが、通常の音楽ものであれば定番である、メジャー

に、セカイ系ほどには定義が混乱、拡散することもなく、ある程度のコンセンサスを得て使用されている。

 また前述した「現代学園異能」とともに「空気系」は、セカイ系と同じくネットのなかで生まれた単語である。その誕生はどちらも2006年だが、これらは幸い(?)なこと

 これらの作品は、男性キャラクターがほとんど登場しない点も特徴で、セカイ系に顕著であった少年の自意識の問題系については、ほぼ排除されていると言っていい。

会の一存』がアニメ化。『ラノベ部』、『僕は友達が少ない』など同様の傾向の作品が相次いでヒットを飛ばしている。

『らき☆すた』のヒットをきっかけとして、このような傾向の作品は、ライトノベルにも普及し、生徒会の一室で美少女キャラクターがひたすらおしゃべりに興じるだけの『生徒

ルギーが見られない点について、やや否定的な発言をしている。

デビューを目指しての努力、挫折や成長といった要素は希薄である。たとえばアニメ評論家の氷 川 竜介なども、Twitter上で、通常に見られる障害とその乗り越えといったドラマツ

!!

 しかし、4コマが原作ということからも明らかなように、これらの作品には概して明確な物語は存在しない。たとえば『らき☆すた』の1話などは、少女たちが、チョココロネ

『けいおん!』など、いずれもゼロ年代後半を代表するヒットアニメ作となった。

少女キャラクターを主人公にした4コマ作品だ。1999年からスタートしたあずまきよひこのマンガ『あずまんが大王』の大ヒットを直接の切っ掛けに隆盛し、『らき☆すた』

『AIR』『涼宮ハルヒの憂鬱』といったセカイ系作品のアニメ化を手がけた京都アニメーションが、近年原作としてよく選んでいるのが、一般的に萌え4コマと総称される、美

 しかし、そのような新たな戦争、新たな都市の物語以上に目立つのが、日常系、空気系などと呼ばれる作品である。

萌え4コマと空気系

もう一度、具体的な土地、固有性に着目しようという流れが生まれているのかもしれない。

 セカイ系との対比でいえば、一人称のもたらす自意識の閉塞を複数の視点によって解消し、あるいはきみとぼくと世界の終わりという極限まで進んだ抽象化の揺り戻しとして、

る聖地巡礼ブームなどによって、実在の都市空間が、半ば虚構化、あるいはアニメなどの作品と地続きになるような事態と呼応していると思える。

 ゼロ年代は森川嘉一郎の『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』などで論じられたように、秋葉原に注目が集まり、あるいはアニメの背景で使われたロケ地にファンが押しかけ

!!

に、セカイ系ほどには定義が混乱、拡散することもなく、ある程度のコンセンサスを得て使用されている。

自己言及性の自己肯定化

 また、『らき☆すた』のもうひとつの特徴が豊富なパロディで、『涼宮ハルヒの憂鬱』をはじめ、多数の引用がなされる。主人公の美少女の一人がオタクという設定なため、ヒ ロインたちがコミケに出かけたりもする。

 このような流れのなかでオタク美少女を主人公にした作品や、オタク文化に自己言及的な作品が増加した。しかし、セカイ系と異なるのが、これらの自己言及は、きわめてあっ けらかんと、オタク文化の肯定のために行われるという点だ。  その典型例として、伏見つかさの人気作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を挙げたい。

 ヒロインである主人公の妹はオタク趣味を持っており、そのことで彼女は周囲の無理解にぶつかる。そんなヒロインを主人公が守るという内容だが、作中では、基本的にオタク

文化やそれに耽溺することは善と、そしてそれに無理解な周囲は悪と描写される。そんなオタクな美少女を主人公が救うヒロイックな展開が描かれる。

 ロボットアニメや美少女ゲームに耽溺するオタクたちに、現実に帰れと突きつけ、あるいは美少女に萌える自身に反省を迫るような『EOE』や『AIR』などとはまったく正 反対の、読者を肯定しようとする意図がここにはある。また『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』では、

  はてなアンテナに登録してあるニュースサイトが毎日あたしに新たな情報を伝えて、色々買わせようとしてくるんだよ? ……うう、かーずSPとアキバBlogめ……

 といった形で、実在する人気ウェブサイトが言及され、言及されたサイトの側が応答して同書を記事のなかで紹介し、そのことでさらに話題を呼ぶ、という流れも生まれた。ま

た、2009年から、同作に登場するキャラクターたちがTwitter上で、読者による感想を「逆書評」するという公式企画がスタートし、キャラクターと読者のコミュニケーションが 行われている。

  注:ただ、パロディ的作品が隆盛している一方、こと「現代学園異能」においては、そうした表現がむしろ減少している点も指摘しておきたい。

インデックス

   つまり『ブギーポップは笑わない』や『涼宮ハルヒの憂鬱』のような変身ヒーローや宇宙人といった存在のありえなさをあらかじめ指摘した上で、なおかつ変身ヒーローや宇宙人の物語を描く物語は退潮している。

   現在のライトノベルは、『灼眼のシャナ』や『とある魔術の禁書目録 』のような「オタク文化的お約束にのっとった超常現象は起こるが、オタク文化への言及がない作品」と『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 『生徒会の一存』のような「オタク文化への言及がなされるが、オタク文化的超常現象が起こらない作品」に鋭く分化し始めている。

   第3章で指摘したように、『ブギーポップ』、『涼宮ハルヒ』的な自己言及性こそが、ゼロ年代のオタク文化の豊穣さを形づくってきたというのが著者の考えであり、個人的には、この傾向を残念に思う。

物語からコミュニケーションへ?

 このような変化を、少年の自意識を描いたセカイ系から、美少女たちの終わりないコミュニケーションを描く物語へ、と少々強引にまとめることはできるかもしれない。

 しかし、現在起こっているのは、自意識の物語からコミュニケーションの物語、という変化ではなく、物語からコミュニケーションへ、というもっと直接的な変化ではないか、 と著者は感じている。  たとえば、コンピュータゲームに目を向けてみよう。

』などのオンライン・ゲームの流行も、ゼロ年代における重要なトピックである。これらを題材にとった川原礫 のライトノベル『アクセル・ワール

れき

 ゼロ年代において流行したのは美少女ゲームばかりではない。たとえばネットを介してひとつの世界に何千ものプレイヤーが接続して共に遊ぶ『ラグナロクオンライン』、 『ファイナルファンタジー

ド』、『ソードアート・オンライン』は近年まれに見る大ヒット作となっており、需要層の大きさを明らかにした形だ。

XI

ド』、『ソードアート・オンライン』は近年まれに見る大ヒット作となっており、需要層の大きさを明らかにした形だ。

 さて、オンライン・ゲームは、ネットを通じた人との交流を楽しむゲームと言える。高性能なチャット・ツールと評されることもあるぐらいだ。

 これまで日本のコンピュータゲームを牽引してきたのは、物語を語るゲーム──『ドラゴンクエスト』、『ファイナルファンタジー』といったRPGだった。Role(役割)を

Play(演じる)するゲーム、プレイヤーみずからが、魔王を倒す勇者など、劇中の主人公となって物語を体験するコンテンツである。ハード能力の向上により、年々、ストー

リーの分量は増え、プレイステーション(PS)で発売された『ファイナルファンタジーⅦ』などは、しばしばゲームの映画化などと評された。

 ところが次世代ゲーム機戦争においては、PS2を上回る映像能力を持ったPS3に、それよりグラフィック能力で劣るWiiが勝利した。同じく携帯機でもPSPに映像処理

能力で劣るニンテンドーDSが勝利した。携帯ゲーム機を通じてモンスターを交換し合う『ポケットモンスター』など、任天堂が追求してきたゲームのあり方には、ゲームを通じ

た人と人とのコミュニケーションの楽しさがある。同ハードの勝因は、『Wiiスポーツ』や『おいでよどうぶつの森』といったゲームそのものではなく、ゲームを通じてのコ ミュニケーションを提供したところにあると、分析されている。

 発売当初はニンテンドーDSに大きく引き離されたPSPが巻き返したのも『モンスターハンターポータブル 2nd G』の大ヒットに拠るところが大きい。同作は、プレイヤー

』もまた、そのストーリー以上に、他のプレイヤーとのアイテムの交換機能などが話題となり400万本

が狩人となってモンスターを倒していくというゲームで、ストーリーはほとんどない。しかし4人同時プレイによって、友人と協力して巨大な敵を倒すという要素で、中高生から 大人まで幅広い層に受け入れられ、400万本を売り上げた。  またニンテンドーDSで発売された『ドラゴンクエスト』の最新作『

ど、現代的なテーマを盛り込み、第1作は米国の『フォーチュン』誌に「

世紀最高のシナリオ」とまで評された。しかしながら『4』は

70

万本を売り上げたものの、ゲームの合

 一方で物語を語るゲームはどうだろう? たとえばPS3のキラータイトルとして大いに注目された『メタルギア・ソリッド4』。ゲームでありながら、核拡散、遺伝子操作な

を売り上げた。ヨドバシカメラ秋葉原店の前に設けられたプレイヤー同士の交流所「ルイーダの酒場」は、交流相手を求める多くの人々で賑わった。

IX

』でも同様の批判がなされている。急速に進化するゲームの性能に対し、日本のゲームは、物語をいかに語る

なく頃に』である。同作は、本格ミステリ風のアドヴェンチャーゲームで、同人ゲーム(自主制作、自主流通作品)として2002~ て発表された。

なった。

年にかけ、計8本のシナリオが4年間かけ

 とはいえ、コミュニケーションを通じてヒットしたとはいえ、『ひぐらし』の基本はノベルゲームであり、推理するために、多くの人々が竜騎士 し、2010年の現在、オタク文化のなかでもっとも勢いのある作品は『東方Project』というシューティング・ゲームだろう。

の語る物語に没入した。しか

『ToHeart』から『ひぐらし』まで、基本的にノベルゲーム、読むコンテンツによって作られてきた伝統を覆し、自分の分身たる美少女キャラクターを操って、敵を撃破していくと

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イヤーへの挑戦をめぐり、公式サイトの掲示板をはじめ、ネット上で活発な議論が行われ、そのことで口コミ的に人気が広がり、アニメ化、実写映画化まで果たす大ヒット作と

 完結編までの7本では、ユーザーに謎を残す形で、事件は未解決なまま終わってしまっている。そのため、ユーザーたちは、『ひぐらし』における「読者への挑戦」ならぬプレ

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  美少女ゲームとその周辺の市場でも、そのような作品受容のコミュニケーション化は起こっていた。『AIR』、『月姫』、『Fate/stay night』に続くムーブメントが『ひぐらしの

『ひぐらし』、『東方Project』──コミュニケーションから物語消費への回帰?

かという点で苦戦しているように思える。

週で150万本を売り上げた『ファイナルファンタジー

間合間で頻繁に、プレイヤーが一切操作できないムービーが挿入され、ゲームをしているより映画を見させられているようだ、との不評が囁かれた。2009年末に発売され、初

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『ToHeart』から『ひぐらし』まで、基本的にノベルゲーム、読むコンテンツによって作られてきた伝統を覆し、自分の分身たる美少女キャラクターを操って、敵を撃破していくと

いうきわめてゲームらしいゲームである。「弾幕」と呼ばれる敵が撃ってくる弾の動きなどの美しさや、ゲームとしての難易度の高さから、シューティング・ゲームとして高い評 価を受けている。

 あるいは1996年の『雫』から連綿として続いてきたノベル・ゲームの時代の終わりを告げるものかもしれない。ストーリーは、基本的には、世界に異変が起こり、その異変 の原因を倒して事件を解決するというシンプルなものになっている。

 本作の本質は、ゲーム本編よりも、この原作の周囲にある膨大な二次創作群(たとえばパロディマンガや小説、ゲーム中の音楽をアレンジしたCDなど)を含めた、巨大な『東

方』という一大ジャンルそのものにあるように思える。もちろん、大ヒット作の二次創作が作られるのは、これまでの作品でも同様だが、『東方』は圧倒的に二次創作物への依存 度が高い。

 というのも、シューティング・ゲームという性質上、『東方』シリーズではステージの合間合間に短い会話が差し挟まれるのみで、キャラクターの詳しい性格などをそこから推 し量るのは困難だからだ。

 現在、オタクたちの間で流通している『東方』キャラクターたちのイメージは、そのような原作ゲームでの情報と、それをもとに作られた二次創作でのイメージが渾然一体と

なった総体である。原作ゲームだけでなく、たとえばニコニコ動画や同人誌などで描かれたキャラクターを通じて、初めて受け手は同作の全貌らしきものを手にすることができ る。

『ファイブスター物語』や『月姫』などの物語消費的な作品も事前に周辺の設定などの理解を求められるという点では同様だが、これらの作品においては、基本的に、永野護や奈

須きのこという一人の作家の記述を、受け手が解読するという構図だった。しかし『東方』の場合は、原作者ZUNによる設定とファンによる二次創作設定の境界がきわめて曖昧

であり、明確に作り手と受け手を区別することができない。もちろん設定のなかには相互に矛盾するものもあるが、『東方Project』のファンは、おそらく厳密な設定を期待していな い。

 そもそも、ZUNはキャラクターの同一性へのこだわりが薄く、しばしば体型や髪型などが大きく変わる。設定自体「空を飛ぶ程度の能力」など、わざと曖昧に書かれている。

二次創作の作り手にしても、創作する際には、そうした設定の記述の束から取捨選択してキャラクターを描いているようだ。その意味で『東方』は、東浩紀が言うデータベース消 費の典型とも思える。

 しかし、このような原作者とファンの交流から設定が生まれてくる様は、原点回帰として捉えることが可能かもしれない。というのも『機動戦士ガンダム』の設定のいくつか

は、ムック『ガンダムセンチュリー』など、ファン活動の一環として作られたものが、公式に取り入れられたという経緯があるからだ。『東方』は物語消費なのか、データベース 消費なのか、それとも、新たな何かなのか? 個人的に今後、考えてみたい問題である。

ニコニコ動画──コミュニケーションとしての創作  そうしたコミュニケーション・ツールとしてのオタク文化を象徴する存在がニコニコ動画だろう。

 ニコニコ動画は、ニワンゴが提供している動画配信サービスである。動画を投稿し、動画上に短いコメントをつけ、他人のコメントを読むことができる。そこではしばしば個々 の作品は、他の視聴者とのコミュニケーションを取るために鑑賞される。

 そこではまた、創作自体が、ひとつのコミュニケーションの手段として行われる。たとえばボーカロイドという合成音声ソフトを用いて作られた音楽が投稿されれば、それを見

た視聴者が自分で歌ったり演奏したりした「歌ってみた」や「演奏してみた」という動画が投稿され、それをさらに組み合わせた「合唱させてみた」動画が投稿され──と、ひとつ

の創作物が瞬時に新たな創作物の材料として解体され、新たな創作物となり、それもまた──という連鎖のなかで、日々、新たな創作物が生まれてくる。

 もちろん、そのような二次創作や集合知的な創作風景は、コミックマーケットをはじめとする同人文化や、あるいは『電車男』などでも行われてきたことだが、ニコニコ動画で は、それがもっとも加速、拡大、全面化された事態を見ることができる。

は、それがもっとも加速、拡大、全面化された事態を見ることができる。

日にクリプトン・フューチャー・メディアから発売された音声合成ソフト(=つまり「音声を合成する電子楽器」)だが、キャラクター・ボーカ

 そんなニコニコ動画を代表するキャラクターが、初音ミクだろう。  初音ミクは、2007年8月

かのように、自意識過剰な

代の少年のように、この「私」をめぐる問題が、

95

年からゼロ年代を通じて語られ続けた。

 セカイ系は、時にその定義はしばしば大きく変わったが、しかし「私」を巡る問題系であるという点は、変わらなかった。まるで、オタク文化という場所自体が思春期を迎えた

 最後に、いささか妄想じみた、個人的な未来の展望というか、願望を書くことを許していただきたい。

 ざっとまとめれば、こうなるだろう。

 しかし、そのような物語の時代はゼロ年代後半には終わりを告げ、作品の読解、そして創作ですらも、コミュニケーションの連鎖のなかで行われる時代が到来した。

荒唐無稽でフィクショナルな存在を導入しつつも、自意識や恋愛といった素朴で普遍的なテーマを描く作品たちが生まれ、それがセカイ系と呼ばれた。

『新世紀エヴァンゲリオン』という大ヒット作のあと、萌え文化が花開く一方、かえって、物語への回帰が起こった。そして、巨大ロボットや変身ヒーロー、戦闘美少女といった

オタク文化の思春期としてのセカイ系──新たなるセカイ系の誕生に向けて

 自意識どころか、作品、作家という論点自体が消失しつつあるのが、ゼロ年代後半から現在に至るひとつの流れだと言える。

『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』などがある。

ない。個々の作品や作家ではなく、むしろ、人々を創作に駆り立てる構造、システム=アーキテクチャが分析の対象となっている。たとえば、そのような評論としては濱野智史

 ニコニコ動画で起きているのは、言わば、作者不在の創作という事態である。こうした文化を論じるにあたり、個々の動画の作り手に注目したりするような議論はあまり行われ

すれば、ニコニコ動画によって作られたキャラクターとさえ言える。

 トレードマークとして定着したネギをはじめ、初音ミクのキャラクター設定の多くは、ニコニコ動画などにアップロードされた動画などでの描写が自然に定着したものだ。極論

てもっとも人気のあるキャラクターのひとりになっている。

ル・シリーズと銘打たれ、人気イラストレーター・KEIによってデザインされた美少女キャラクターとして売り出されたことがきっかけでブレイクし、現在のオタク文化におい

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 しかし、いささか予言めいたことを言わせてもらいたい。

だ。

 現在のニコニコ動画に代表される、ネット発の新たな文化は、おそらく今、幼年期もしくは成長期にある。日々、新たな知識や技術を獲得し、新たなものが生まれていく時期

 だが、筆者は、ここでたとえば自意識の時代が永遠に終わった、などと言うつもりはない。

きたいと筆者は思う。

も、それでもこの世に生み出されてくる、ポスト・エヴァの想像力を(そっと心の中でセカイ系と呼びながら──なにしろこの言葉の意味はあまりに拡散してしまった!)論じてい

 セカイ系だから、ループものだから、私小説だから、無条件に肯定されるような時代はかえって作品にとって不幸だろう。商業的要請や読者の取捨選択の荒波に揉まれながら

しく評価していきたいと思う。本書では詳しくは踏み込まないが、注目すべき作家は幾人もいるのだ。

 もちろん、セカイ系的作品を個々人として書いていく作家はいるだろう。ライターとして、書評家として、そのようなセカイ系の時代の記憶や達成を受け継いだ作品たちを、正

メントを目指そうとする姿勢を、成長と呼ぶことも可能だろう。

 そのようなセカイ系の時代、自意識の時代、オタク文化の思春期は、すでに終わりを告げたと言っていい。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の、原作から脱却し、エンターテイン

 しかし、思春期は、いつかは終わってしまう。

 オタク文化に携わる者が、作り手が、受け手が、なぜそれを作るのか、それを受け取るのか、我々は何なのか?という自省を迫られるようになった時代だった。

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 しかし、いささか予言めいたことを言わせてもらいたい。

 そんな創作の過程で、必ずどこかから自意識の問いは生まれてくるはずである。「一体、自分たちは何を作っているのか」「自分たちは何故、このような作品に心惹かれている

のか?」という問いが。そしてまた、そのような問いかけ、自問自答を内包した作品が、ムーブメントが必ず生まれてくるはずだと。  おそらくそのムーブメントは、セカイ系とは別の言葉で名指されることだろう。

 あるいは、セカイ系という文化にどっぷりとつかってしまった筆者には見えないだけで、すでにもうどこかで生まれ、誰かに名指されているのかもしれない。

 しかし、それを承知で、筆者は、やがて生まれてくるだろうそれを、新たな、次のセカイ系と呼びたい。そして、その誕生を心待ちにしながら、ひとまず筆をおこうと思う。

 あとがき  セカイ系という言葉を初めて聞いたのはいつだったか、もう覚えていない。

 しかし私は、『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』、『イリヤの空、UFOの夏』といった作品がセカイ系という言葉で揶揄された時、反射的に、擁護しなければならないと感じ

た。だが不思議なことに、このセカイ系という本来、揶揄的な語には奇妙に引きつけられた。なぜかそこで「ぼくの好きな作品をセカイ系と呼ばないでくれ!」ではなく「セカイ

系をバカにするな!」という反応をしてしまったのである。セカイ系という言葉が、こうまで様々な意味を与えられたのは、多かれ少なかれ、この語を用いた人のなかに、似たよ

代になったばかりだった筆者は、この言葉に猛烈に引き寄せられた。そうして学生ながらも、オタク文化の最前線で活躍されている方へ同人誌でインタ

うな思いがあったからだとも思えてくる。  いずれにせよ、当時、

 

年代後半における『エヴァ』による、巨大ロボットアニメのなかで、率直な自意識の問題を赤裸々に描くという達成は、オタク文化に作品受容の態度に大きな変化を起こし

 本書はセカイ系をはじめとしたゼロ年代のオタク文化を、『新世紀エヴァンゲリオン』が起こしたパラダイム・シフトから論じた書籍である。

 本書は、私にとっての初めての評論書となる。自分自身のこれまでの人生の総括とも言えるテーマを、こうした形で発表できたことを、とても嬉しく思う。

品という形さえとった)があった。そしてこの言葉が生んだひとりが、ライターとしての筆者なのだと思う。

ビューなどを行い、いつの間にか、ライターとして活動するようになった。本書のなかで述べたように、セカイ系という言葉には、呆然とするほど、様々な反応(それは時に、作

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す。また、今では参照が困難な2002年から

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年のセカイ系についてお話をうかがわせていただいた加野瀬未友様、情報を提供していただいたばるぼら様、また「セカイ系」の

新海誠様。2002年の七夕の日に東中野の映画館で、初めて『ほしのこえ』を観た時の感動、ここから新しい何かが始まるのだという確信に似た衝撃は、今も心に残っておりま

 本書執筆にあたっては、数多くの方々のお世話になりました。そのすべてのお名前を記することはできませんが、なかでも、本書の帯にてイラストを使用させていただきました

 ──ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

の道具、土台として使っていただければ、これ以上の幸せはない。

 いろいろと拙く、不出来な書籍かもしれないが、ぜひとも読者の皆様から、批判、検討を加えていただき、セカイ系、そしてゼロ年代のオタク文化とは何だったのかを問うため

あるいは現代という世界を語れるようになるのではないか。私は、そう考えている。

る一助にはなれると思っている。そしてあなたによって語られたセカイが、また誰かのセカイとなり──そんな連鎖のなかで、いつか私たちはポスト・エヴァ、あるいはゼロ年代、

 この書籍は私の狭い認識によって書かれたもの──セカイにすぎない。けれども、それが言葉として紡がれたことで、あなたのセカイの一部となり、そして、あなたがセカイを語

よりも、あえて主観的に歴史を語り、それに対して批判や意見を頂くことで見えてくるものもあると思うのだ。

 しかし、二次元のキャラクターの身ならぬ我々は、ある特定の時代に生まれ、育ち、死んでいくという条件から逃れることはできない。だからこそ無理して客観的な視点を装う

い。その感は否めないと自分でも思うので、どうか忌憚のない批判を頂ければ幸いである。

 これが、本書が描いたゼロ年代のオタク文化の流れである。あるいは、若い世代には、私が『エヴァ』という個人的な体験を特権化しようとしているように思われるかもしれな

現れ、全盛化していく。

 しかし、そのようなポスト・エヴァの時代もゼロ年代後半には終わり、ニコニコ動画などに代表されるコンテンツを通じてのコミュニケーションという新たな作品受容の態度が

生んだ。そのため、ゼロ年代の中盤には、セカイ系という語によって揶揄され、批判されることによって、かえって多くのセカイ系作品が生まれた。

 そしてまた、完結編である『EOE』が残した「キモチワルイ」という一言、現実へ帰れというメッセージは、まるで原罪のようにオタクたちの心に残り、自己反省への欲望を

た。そしてゼロ年代に、巨大ロボットや最終兵器や密室殺人という荒唐無稽なガジェットの上で語られる自意識の物語がセカイ系と名指されることとなった。

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す。また、今では参照が困難な2002年から

年をありがとうございました。そして、原稿をお読みいただ

年のセカイ系についてお話をうかがわせていただいた加野瀬未友様、情報を提供していただいたばるぼら様、また「セカイ系」の

祖であるぷるにえ(現・とかたき)様。私にとってのゼロ年代は、つねに、この言葉とともにありました。実り多き

也様に、深く御礼を申し上げます。

二〇一〇年一月一九日 前島 賢

 そして最後に、原稿を辛抱強くお待ちいただき、進行の合間をぬって多くの資料を集めてくださり、視野狭窄な私に、貴重な外部の視点を与えてくださった担当編集者の上林達

力を授けてくださった東浩紀様、謹んで感謝を捧げます。

じめとする限界小説研究会の皆様、そして本書に2つの基礎、セカイ系を分析するための基礎となる理論と、『波状言論』でのスタッフ経験を通じ、ライターとしての基礎的な筆

き貴重なアドバイスを頂いた伊藤剛様、豊住裕也様、夏葉薫様、前田久様、また私のセカイ系への問いの出発点ともなった同人誌『Kluster』、『Majestic-12』、『Natural Color Majestic-12』でお世話になった更科修一郎様や山田和正様、佐藤心様をはじめとする皆様、また、勉強会で多くの示唆を与えていただいた笠井潔様、小森健太朗様、渡邉大輔様をは

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03

 主要参考文献 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(全4巻)電撃文庫、2001年~2003年 浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎新書、2006年

、東京創元社、2007年

号、波状言論、2004年

東浩紀「郵便的不安たち──『存在論的、郵便的』からより遠くへ」『郵便的不安たち』朝日新聞社、1999年 東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書、2001年 東浩紀、新海誠、西島大介「セカイから、もっと遠くへ 後編」、東浩紀(編)『波状言論』

東浩紀(編)『美少女ゲームの臨界点』波状言論(同人誌)、2004年 東浩紀(編)『美少女ゲームの臨界点+1』波状言論(同人誌)、2004年 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年 東浩紀「セカイ系から、もっと近くに!──SF/文学論 第一回 問題設定」『ミステリーズ!』VOL. 庵野秀明「幸福を求めて」『ニュータイプ』角川書店、1995年4月号 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房、2008年 太田克史「リタラチャー NO.3」『タンデムローターの方法論』(同人誌)、2002年 大塚英志『定本 物語消費論』角川文庫、2001年 大塚英志『キャラクター小説の作り方』講談社現代新書、2003年 大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』徳間書店、2003年 大塚英志、ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書、2001年 岡田斗司夫『オタク学入門』太田出版、1996年 岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』新潮新書、2008年 笠井潔「戦闘美少女とilya」、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂、2008年

佐藤心「オートマティズムが機能する2」『新現実』VOL.2、角川書店、2003年

土社、2004年

佐々木敦「「きみ」と「ぼく」の壊れた「世界/セカイ」は「密室」でできている?──西尾維新VS舞城王太郎」、『ユリイカ2004年9月臨時増刊号 総特集:西尾維新』青

限界小説研究会(編)『社会は存在しない セカイ系文化論』南雲堂、2009年

久美沙織「解説」、日日日『ちーちゃんは悠久の向こう』新風舎、2005年

唐沢俊一「サブカルのパンドラの箱~伊藤(バカ)くん問題」、岡田斗司夫(編)『国際おたく大学─一九九八年 最前線からの研究報告』光文社、1998年

上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』電撃文庫、1998年

風見周『殺×愛 0』、富士見ファンタジア文庫、2005年

きるらぶ

笠井潔「「近代文学の終り」とライトノベル」、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂、2008年

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東浩紀、斎藤環、佐藤心、砂「オタクの教養2004」『ゲームラボ』三才ブックス、2004年3月号

16

新城カズマ『ライトノベル「超」入門』ソフトバンク新書、2006年 鈴木謙介『ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか』NHKブックス、2007年 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』角川スニーカー文庫、2003年 中条省平「中条省平さんが語る「安倍なるモノ」『デスノート』「セカイ系」の不気味さ」『AERA』朝日新聞社、2006年 中森明夫「『おたく』の研究(1)」『漫画ブリッコ』白夜書房、1983年6月号 デジタル

キータッチ

西尾維新『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』講談社ノベルス、2002年 橋本勝也「具体的 な指触り 」『群像』講談社、2007年6月号 濱野智史『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』NTT出版、2008年 伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』電撃文庫、2008年 前島賢、更科修一郎(編)『Natural Color Majestic-12』parallel loop & Cute plus(同人誌)、2005年

月2日号

宮台真司「限界の近代・限界の思考 ~境界の正当性を巡って~」『Mobile Society Review 未来心理』vol.005、モバイル社会研究所、2006年

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宮台真司「〈世界〉のアレゴリカルな交響があるとする繊細な感性をアニメ版『時をかける少女』に、〈世界〉に無関心であるがゆえの「セカイ系」特有の出鱈目をアニメ版『ゲ ド戦記』に見る」、『〈世界〉はそもそもデタラメである』メディアファクトリー、2008年 元長柾木「解説」、神林長平『天国にそっくりな星』ハヤカワ文庫、2004年 元長柾木「回想──時代が終わり、祭りが始まった」、東浩紀(編)『美少女ゲームの臨界点』波状言論、2004年 森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎、2003年 、モスコミューン出版部(同人誌)、2004年

山口直彦「セカイ系と日常系」、一柳廣孝、久米依子(編著)『ライトノベル研究序説』青弓社、2009年 山田和正(編)『Kluster』Vol.

03

 主要参考作品

 本書の中で、主題的に論じたものにかぎり、ジャンルごと発表年のみを記した。詳しい情報はインターネットなどをあたっていただきたい。

アニメ 『トップをねらえ!』1988年 『新世紀エヴァンゲリオン』1995年 『機動戦艦ナデシコ』1996年 『THE END OF EVANGELION』1997年 『無限のリヴァイアス』1999年 『ほしのこえ The voices of a distant star』2002年 『涼宮ハルヒの憂鬱』2006年 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』2007年 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』2009年

マンガ 永野護『ファイブスター物語』、1986年~ 高橋しん『最終兵器彼女』、2000年~2001年

ゲーム 『雫』1996年 『東方Project』1996年~ 『ToHeart』1997年 『ONE~輝く季節へ~』1998年 『AIR』2000年 『月姫』2000年 『ひぐらしのなく頃に』2002年~2006年 『マブラヴ』2003年 『Fate/stay night』2004年 『マブラヴ オルタネイティヴ』2006年 『スマガ』2008年

 インターネット上からの引用については、著者のウェブサイト上に、参照したサイトへのリンク集を設置する予定であ る。「parallelloop」(http://parallelloop.jp)へアクセスしていただければ幸いである。

著者略歴

前島 賢 (まえじま・さとし) ライター、評論家。

1982年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。 2000年、NHK『真剣10 代しゃべり場』第一期レギュラーメンバー。 批評家・東浩紀発行のメール・マガジン『波状言論』の編集スタッフを経て、2005年、ユリイカ増刊号『オタクVS

サブカル!』(青土社)掲載評論

「僕をオタクにしてくれなかった岡田斗司夫へ」にて文筆活動を開始。『メフィスト』、『SF マガジン』、『ドラゴンマガジン』、『このライトノベ ルがすごい!』など、さまざまな媒体で書評、評論を執筆。 共著に『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)がある。 ブログ:parallelloop

http://parallelloop.jp/

ソフトバンク新書 125 けい

なに

セカイ 系 とは 何 か し

ポスト・エヴァのオタク史

2010年2 月25 日 初版第1 刷発行 2010年3 月31 日 初版第2 刷発行 2012年2 月27 日 電子第1 版発行 まえ じま さとし

著 者:前島 賢

発行者:新田光敏 発行所:ソフトバンク クリエイティブ株式会社 〒106-0032 東京都港区六本木2-4-5 電話:03-5549-1201(営業部)

装 幀:ブックウォール 本文組版:クニメディア株式会社 印刷・製本:図書印刷株式会社

本書の内容に関するご質問等は、小社学芸書籍編集部まで書面にてお願いいたします。

Satoshi Maejima 2010 Printed in Japan ISBN 978-4-7973-5716-5

Smile Life

When life gives you a hundred reasons to cry, show life that you have a thousand reasons to smile

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